補習の三時間目は英語で、むつみたちの二年一組で開講された。むつみの隣の席の茜は、頬杖をついてうとうとしながら授業を聞いていた。むつみは体中の神経がこれから待ち受けることにひどくおびえて、そして研ぎ澄まされていて、そのせいで満足して授業に打ち込めなかった。
 授業が終わると、隣の、職員室に近い講義室から涼香がひょこっと現れた。涼香は忠道を講義室に呼んで、そこを告白の場所にしようとむつみに教える。もっともまだ残っている生徒達が多いので、少し時間が経ったらの話である。
「準備はいいの?」
 茜は風で揺れるカーテンの方を向いて訊く。
「万全よね!」
 涼香はうまくいくことを信じて疑わない風に笑った。何故そこまで気楽にいられるのかむつみにはわからない。他人事だからだろうか。でも応援してくれる人がいることは何より心強い。そう思った。






 夏休み中の職員室は適度な冷房で涼しいことこの上ないが、忠道には窓際の席が当たっていた。カーテンをしても、なお日射しがこぼれている。
 補習の一時間目に理科科目が開講されたが、もう一時間目は終わってとうに時刻は一時近く、補習は終わっていた。書類系の仕事が一段落ついた忠道は、机の一番下の引き出しを引いた。
 ノートや書類にまぎれて、ちょこんと臙脂色の小箱が存在していた。仕事が落ち着いたとき、何度も引き出しを引いては眺め、密かに取り出している。今日も取り出してみる。開けようとしたが、失礼しますと入ってくる女生徒の声を聞いて、そっと閉まった。その動作は決してこそこそしているようなものでなくて品がよく、人を不快にさせたりはしなかった。
「あの、火崎先生」
「ん? 何だ?」
 ちらりとみると三人の女生徒――むつみ、涼香、茜が、忠道から少し距離を保ちながら立っていた。
 王林涼香、藤野むつみ、北斗茜……二年一組の女生徒だ、と忠道は思った。
「ちょっと、講義室に来てもらってもいいですか」
 涼香がはきはきと言った。敬語でなくてもはっきりしているのは気持ちいい。
「あの、お食事が済んでいないのなら、あの……」
 急に噴き出す水のようなむつみの声だ。語尾に近づくにつれ音は小さくなる。むつみが顔を赤くし、少しうつむかせながらも忠道の方を向いている。


(どうしよう、今の明らかに変だと思われたよね……)


 ついに告白という大イベントを迎えるのだ。むつみは涼しい職員室で一人熱を体に込めていた。忠道はそれを知らないから
「藤野? どうした」
と訊いてしまうのは当然の流れだ。頭をぶんぶんふって大丈夫です! とわりと大きな声を出す。
「構わないけど、どうした」
「来ればわかります」
 涼香はもう講義室へ行き始めた。一番後ろの茜もすいすいついていき、むつみも急ぐ。涼香が告白の時間へとどんどん先に進めてしまい、むつみは困っていた。もう少し、遅くでもよかった。補習がすべて終わってからでも。もし失敗したら、補習どころか二学期から半年も続く地学の時間に耐えられない。今更むつみは焦った。後ろから忠道がついてくる。後ろに忠道の気配がする。ほんの数メートルの、職員室から講義室までの距離が苦しいと同時に愛しい。
 そう、愛しい気持ちがある。理屈では表せない好きの心がすくすく育ってここまできたのだ。ここまでこれない、むつみと同じ気持ちを持つ人はたくさんいるはずだ。失敗しても、自分のようなちっぽけな人間が、友人の力を借りながらもここまでこれた。そのことがきっと自分を救ってくれるはずだ。むつみは思う。
 そしていつのまにかむつみは、自分と忠道が二人きりになっていることに気付いた。涼香と茜は外で待っているらしい。いつか訪れるはずの二人きりのシチュエーションが今まさに始まっている。別のことを考えていたむつみは再び焦ってしまい、忠道と目が合わせられない。
「話したいことがあるって入る前に王林が言ってたが」
 忠道の声は授業と同じく優しげで、しかしどこか厳しげな響きもあった。
「その、えっと、あの」
 忠道の声の響きを頭で何回も繰り返す。目を閉じて心を落ち着かせた。
 浮かぶのは、この前ペン先から溢れ出した、無垢な恋心が纏った言葉達だった。
 大丈夫。失敗したって構わない。しっかり伝えよう。
 むつみは目を開いた。うつむいたままだったので、床の木目が目に映る。告白の大事なところで、顔をあげようと思った。
「私」
 しかし、告白はその先の言葉が続かなかった。
 むつみの頭の中が真っ白な世界になる。
「あの、私」
 続かない。むつみは唖然とした。
「……あれ?」
 まばたきした。それから何故か、両手のひらを見つめてしまう。
 忠道は首をかしげる。
「大丈夫か?」
 むつみはしばらく、動きを止めた。そして小さくふるふるとかぶりを振る。言葉を、自分から制しているのではない。続かない。


 より正確に言うと、どうしても続けられないのだ。


 頭の中で、心の中で何度も繰り返した言葉を、伝えられない。ぱっと頭が真っ白になる。混じりけのない白の光に覆われて言葉が失われる。


「ごめんなさい! 失礼します!」


 むつみは忠道と顔を合わせることなく、講義室から走り去っていった。
 忠道は別段不思議に思う風もなく、髪を掻き揚げた。蝉はうるさく鳴いており、日差しはやはり強かった。締め切ってある講義室は暑い。職員室側の扉から出て行くと、むつみ、涼香、茜の三人の姿は廊下に見えなかった。

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