翌日、夏らしい良い天気となった。宇宙まで突き抜けていくような青い空とクリームのような白い雲が印象的な木曜日の四時間目、忠道の授業があった。
 少女、藤野むつみが選択している地学の授業である。あの秘密の一時を過ごす地学講義室で、いつもと同じ様に忠道が授業をする。今日は先日行われた期末テストの返却であり、また、一学期最後の地学でもあった。
 ぞろぞろと生徒が自分のテストを受け取りに来る。成績に女子たちはきゃあきゃあ騒ぎ、男子たちもわいわい騒いでいる。成績にまだのんびり一喜一憂できる高校二年の夏の始まりだ。
 むつみは忠道と目を合わせずにテストを受け取る。机の黒を背景に、彼のごつごつした右手がかわりに目に入った。忠道が持っていたテストの部分がほんのり暖かい。誰にも気付かれないようにそこにそっと触れて、誰にも見えないようにうつむきながら微笑む。
「むつみ何点だった?」
「秘密」
 賑やかな講義室に吸い取られていくような声で友人の涼香に答えた。
「ふふーん、どうせいい点だったんでしょ」
「涼香は?」
「あたしも秘密よ。あーあ、あんたくらいいい点とりたいわ」
 大きく伸びをして、机に涼香は寝そべった。暑いのでテスト用紙で頼りない風を作って送る。
「もー、そんなに良くないって」
「嘘おっしゃい」
 涼香はおだんごの髪を少し掻く。少しずつ講義室が静まっていく中で、
「大好きな火崎センセのテストだものね」
 と涼香はむつみに耳打ちした。むつみは思わず声を上げそうになったが、すんでのところで抑えた。そのかわり椅子が鈍い音を立てる。ちらりと忠道の方を見ると、忠道はむつみを当然のように見ていた。
 むつみはすぐ視線を落とした。体が熱い。気候のせいではなく、じっとりと体の芯から来るもどかしい熱さからだった。顔は赤くなっているのだろうか、むつみは思った。


 一通りテストの解説が終わると、
「さてもうすぐみんなお待ちかねの夏休みだな」
と忠道は涼しい顔をして言った。
「後の時間は自習にしようと思ってたが」
 が、と聞いて生徒達はええーと非難の声を上げた。
「別に授業するわけじゃないからまあ聞き流してくれてもいい」
 暑いからうちわで扇いでもいいぞと言うとぱたぱたと扇ぐ音が多く聞こえてきた。涼香も学校に持ってきているうちわで扇ぎ始めた。むつみはその行為が恥ずかしくて出来ず、うつむいてじっと手のひらを見ていた。
「地学の前半は宇宙についてやってきたわけだが……夏は星もなかなか面白いものが多い。
 天の川、夏の大三角形に、ペルセウス座流星群も夏だ。まあ……花火大会もあるし、ぼけっと夏休み過ごすんじゃなくて、たまには空を見上げてみるのもいいんじゃないかと、そんな話だ」
 恥ずかしさがようやくおさまってきたむつみは少しずつ顔を上げる。忠道は別の方向を向いている。むつみの小さな茶色い瞳に彼の姿を出来るだけ焼き付けようとする。体中が心地よい熱にうかされる。
「授業で出てきた恒星のアンタレスも夏によく見える。夏の星座の一等星だからだ。さて何の星座か」
 忠道は目の前の男子生徒を当てた。さそり座、と答えて忠道は頷いた。
「そう。さそり座。星占いでも出てくるからよく知っていると思うが、黄道十二宮の八番目の星座だ。
 ええと、授業でも描いたか? エス字カーブした星座で」
 と忠道は黒板にうっすら星座を書く。赤チョークでアンタレスの位置を書き込んだ。
「アンタレスは赤く見える」
 アンタレスは太陽の六百倍の大きさで、とそれから少し授業を復習する。いつのまにかむつみは忠道から視線を赤い星に移していた。むつみはさそり座だった。今までむつみがあまり気にしなかった星座を忠道が語る。何だか嬉しくて不思議な感じがして、星座に愛着がわいた。
「これを目印にして星空を眺めて欲しいと先生は思う。ま、勉強も大切だがな」
 その時前の方にいた女生徒が先生、何座? ときいた。忠道は少し微笑んで黒板をこんこん叩き、
「さそり座だ」
と答えた。むつみは、はっとして、
(わたしと同じ)
とゆっくりゆっくり心の中で繰り返した。嬉しくて、喜ばしくて、笑わずにはいられなかった。
 完全にうつむいて笑おうと思った。だが、少しだけ忠道に気付いてもらいたいというわがままな気持ちが生まれて半分だけうつむいた。同じ星を共有する。世界にそんな人は大勢いる。だけどその大勢の中に忠道がいることが非常に嬉しかった。誰もいない世界で初めて誰かに会えたような気がした嬉しさも、きっとこんな風に感じるのだろうとむつみは思った。

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