ピッと、電子音を出して電話を切る。事務的な音だが、恋人との真夜中の電話の後に聞くと、長電話が終わった後の切なさと、久しぶりに甘い一時を過ごせた嬉しさが絶妙に混じった音がする、と火崎唯花は思った。
 見ると時計は一時を指していた。二時間の長電話もあっというまだ。時間も距離も飛び越えてしまった気がする。電話は携帯電話ではなく家の電話の子機なので、充電器にさしておこう、と思い唯花は肌にひんやりと冷たい階段を降りていく。七月の中旬、もうすぐ夏休みで、日中は暑いというのに、今日の夜は涼しかった。雨が降っているわけでもない。空は星がきらきらしている。
 部屋へ帰るついでに、切ってから冷蔵庫に冷やしておいたリンゴとペットボトルのお茶を持っていく。そして、兄の忠道の部屋の側を通った。居間に行くときも気付いていたが、ふすまが少し開いていた。
「兄さん? まだ寝てないの?」
 ひょいと唯花は部屋に入った。忠道の部屋は八畳の和室だ。広くて唯花は羨ましいが、広さを持て余しているのか、彼の部屋は殺風景だった。地元の高校で地学の教師をしているから教科書や学術書が一杯入った本棚と、小さなテーブルとその上にのったパソコンと、一つのチェストしかない。今は夜なのに布団もしいていない。ますます無味乾燥な部屋である。部屋の主の忠道は、窓を開けて、すぐ側でくつろいでいた。涼んでいるのだろうか。
「星を見てる」
「学校遅刻しちゃうよ」
 地学の教師だからだろうか、忠道はよく星を見る。しかし四国の田舎の県とはいえ、唯花たちの住むここはわりと都会の方なので、最近はよく見えない。が、今日はよく晴れた夜空なので、何か星座が見れるのかもしれない。
 唯花はテーブルの側に座ってリンゴを食べ始めた。
「お前こそ、学校遅刻するぞ」
「明日は二限目からだもん。大丈夫」
 唯花は今年十九歳、短大に通っている。唯花は将来保育士になろうと思っているから、彼女の学部は幼児教育学部である。忠道は唯花よりも十も年上で三十路手前だった。
「また、篠孝と長電話か」
 篠孝とは、長野にいる唯花の恋人だ。唯花より二つ年上の大学三年生である。信州の方にいる篠孝とは、遠距離恋愛なのであった。
「遠恋に長電話はつきものだよーだ」
「電話代払えよ」
 兄の嫌味な口調に払いますうと不機嫌そうに言ってみる。遠距離恋愛は相手に会えないし、つまらないし寂しいし、コンタクトを取るのに手紙は葉書でも最低五十円お金がかかるというのが痛いところだった。しかし、不思議と唯花は不安にならなかった。
 唯花と篠孝はそうなのだ。
 いや、日本にいる、ある「特定の人物達」に関しては、唯花も忠道も相手も不安をあまり感じない。あまり距離を感じない。それがずっと昔から決められている。何故かは知らない、そして知ろうとしない。何故、それらの人々だけなのか。何故、選ばれてしまったのか。知ろうとしない。


 運命というものがそれらの人々を優しく縛る。


「兄さんこそ、どうなのよ」
「何が」
「何がって……李亜さんのこと」
 西門李亜という女性が京都にいる。彼女もまた篠孝と同じく「距離を感じない特定の人物」の内の一人だ。唯花は、忠道と李亜が親密な仲であることをなんとなく知っている。高校二年の正月に、火崎宛ではなく、李亜から忠道宛に年賀状が届いたことがある。それ以前に忠道は京都に何回か出張や旅行に繰り出していた。唯花の推測では、旅行の方が多い。年に一度、主に正月かお盆に「特定の人々」が任意で、東京のとある家に集まる。高校三年のお盆に東京で初めて李亜と忠道のツーショットを見たとき、唯花はもしかしたらと思ったのだ。直接兄に問うのは今日が初めてだった。唯花はリンゴをかみ締める。じっとりと舌に染み付く甘さを感じ、そっぽを向いている忠道をじっと見る。
「関係ないだろ」
「そりゃあないけど……でも二人ともいい歳じゃん。
 兄さんだっていつまでも独り身ってわけにもいかないじゃない」
 李亜は確か二十七か六か、それくらいだったと唯花は思う。実際の彼女はだいぶ大人びて落ち着いた印象のある女性だったから本当の年齢はよくわからない。もしかすると忠道より年上かもしれないが、唯花は、二人が並んだときに感じた。この二人がくっつけばいい、いや、くっついて欲しい、くっつくんだというものを。その想いがだんだんと確信めいたものに変わっていくあの嬉しさや高揚感は今でも再生できそうだ。
 忠道は変わらず星を見上げている。あんまり何も言わないので、唯花も何も言わないことにした。せっかく思い出したあの嬉しさがしょぼしょぼとしぼんでいく。何か不味いものを食べてしまったように舌が荒れてきたのでもう一つリンゴを頬張る。しばらく口をもぐもぐさせていると、この問題は兄の個人的なことだということが唯花に今更ながらわかってきた。
 小さくごめんねと言いながら忠道の部屋を後にした。最後に見た彼の背中から、彼が悩んでいるのか、ただぼうっとしているのか、寂しがっているのか、それとも何も考えていないのか、様々なことが浮かんできたが、どれが本当か唯花にはわからなかった。唯花は自分の部屋の窓を開けて空を見た。一つ明るい赤い星が見えたような気がした。

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