ぼくはいつの間にか体を倒し眠っていた。ぼく自身眠くはならないが、寝るという行為が出来ないわけではない。畳や床の上で寝ると普通は体を痛くするものだけど、ぼくには痛覚もなかったので特に不快さを感じずに起きることが出来た。
 部屋に由香の姿はなく、ベッドの枕元にあった時計を見ると八時半過ぎだった。だけど制服はハンガーにかけられたままで、なおかつ由香の気配を居間の方から感じた。今日は学校が休みなのだろうかと、音を立てないようにして由香の部屋から出てみる。
 その時、由香はちょうどぼくの目の前を通り過ぎるところだった。昨日と似たような服を着て、学校の鞄とは思えないようなきらきらして可愛らしい鞄を肩から下げている。のっそり起きてきたぼくを見て一瞬言葉を出しかけた由香だったけれど、何も言わず玄関へ直行した。靴を履いて、由香は無言で家から出ていった。
 しばらく立ちつくしてぼくはこう思ったのだ。ああ、由香はきっと学校に行っていないんだ、と。制服がどこか申し訳なく部屋に存在している所以はそこにあったのだ。
 由香は無言で出掛けた。いってきますも無い。当然いってらっしゃいも無い。ぼくが言えば良かったなと少し肩を落とし、居間の方を向いた。そこからはテレビのニュースの音が流れているだけだった。
 居間には、由香のお母さんがいる。でも母娘二人には、おそらく会話は無いのだろう。多分、いただきますもごちそうさまも無いような気がして、ぼくの胸は何故か苦しくなった。――ぼくは由香のお母さんに会いたくなった。
 ぼくの姿は本当に由香以外に見えていないのか、と疑問に思ったこともある。物音を立てないように、物を動かさないように慎重に居間に入っていった。ぼうっとテレビを眺めるお母さんの横に立ってみて、テレビの前にも立って見たけど、やはり彼女にはぼくの姿が見えていないのだ。何の反応もなかった。だからといって別に気付かれたいわけでもないぼくは、大人しく何も物のないところに座ってお母さんの横顔を見つめた。
 由香のお母さん。四十手前くらいだろうか。もう越えているかもしれない。髪にはつやが無く、化粧気の無い顔も、まるでのっぺらぼうのように表情が無い。猫背になってテレビを見ているけれど、表情が無いので特に興味を持って番組を楽しんでいるようには思えない。全体的に疲れた印象だ。服だってよれよれで、何日も着替えていないように見えた。
 さっき感じた、胸の苦しみが続いている。何故だろう。ぼくは由香の部屋の制服を思い出す。あの制服になってしまった気分だ。申し訳ない。ぼくの心の泉から、ただひたすらにその想いが湧き出てくる。

 もし、ぼくじゃない誰かが彼女を見ても、全体的な雰囲気からいたたまれなさに近い哀れさを抱く可能性はある。でも、そんな誰でも抱けるような想いとは違う。それらとは共通する部分があっても、何か決定的な違いが、それらとの差をありありと見せつけている。そしてその差こそが、ぼくをぎゅうぎゅうと締めつけるのだ。でも、それが何故だか、そして何なのか――ぼくにはわからない。未だにわからない。

 去来する苦しさと切なさを持て余していると、何かが鳴った。電話だ。お母さんはのそのそと立ち上がって受話器を取った。近付いって、内容を出来るだけ聞き取ってみる。
 お母さんの声はとても小さくて、テレビの音もあるから実のところよく聞き取れはしなかったのだけど、断片的な言葉を回収することはできた。そしてそこから、ぼくの知っている僅かなことを合わせて、一つの推論を立てる。――ぼくはこれ以上お母さんを見ていたくなくて、そっと由香の部屋に戻っていった。

 由香は学校に行っていない。どれくらいの間行っていないのかはわからないが、現在由香は中学校三年生だ。といっても一日中どこかをふらふら遊び歩いているわけではなく、由香は不登校の子達が集まるある施設――お母さんはセンターと呼んでいた――に通っているらしい。
 さっきの電話は彼女の担任の先生から――もしくは生徒指導か進路指導の先生からのようだ。由香はもう中三なのだから、受験もあるし、そろそろ何とかしないといけない状況にいる。由香のお母さんは申し訳なさそうに何度も頭を下げていたし、実際また、とか何度も、という言葉も聞き取れたから、電話はよくかかってくる。つまりそれなりに逼迫した状況でもある。……以上がぼくの出した推論だ。

 しかしだ。それを知ったところで、ぼくに何が出来ると言うのだろう?

 ぼくは畳に寝っ転がった。しばらくは何も考えずにごろごろしていた。けれどそんなことをしている場合じゃない、という妙な焦燥感にかられて体を起こす。でもぼくは何も知らない。覚えていない。結局なすすべがない。不機嫌に唇を曲げてしまう。

 でも由香にしか――危うい状況にいる彼女にしか見えないということは何かしら彼女に目的があるのだろう。ぼくにしか出来ないことがある。それを見つけ出さなければ。――今思い出してみて気付いた。強くそう思ったのは、その時が初めてだった。

 由香の机の上に目をやった。机の本棚に日記帳があるのだ。とりあえずここから情報を集めるんだ、とぺらぺらページを捲ったけれど、ほとんどのページが使われていなかった。無表情な罫線がファンシーなキャラクターとともにぼくをむっつりと睨んでいる。大人しくぼくは最初から読んでみることにした。
 日付と由香の文面から察するに、それは中学校入学の時からスタートしているらしい。由香の文は年のわりには淡々としていてしかも短く、人が見たら日記とは思わないかもしれない。そこから読み取れる事実を固めて、日記帳を棚に戻した。
 由香は、友達が少なかったのか、いじめられていたのか、ともかく小学校であまりいい思いをしなかったらしい。だから、中学入学を機に自分を変えようと思って、いろいろ努力していた。明るく振る舞ってみたり、積極的に人に話しかけたり、授業中にも多く挙手するようになったらしい。
 ――以前の由香は、今の印象から与えるイメージとは随分遠く、大人しい女の子だったみたいだ。そういうことするだけでも、大進歩だったということがわかる。けれど、彼女の日記帳を最後まで使いきるような、またそのどこか無表情な文章を変えるような出来事は、努力の甲斐も虚しく、起こらなかった。
 また失敗した、とだけ書かれた日付。教室にいるのが苦しい、と書かれた日付。誰々さんから目をつけられた。怖い、と怯える文面。そして、学校に行くのが嫌だ、とだけ書かれたページ。
 それからその日記帳は語るのをやめている。それ以降の空白も、埋められないページも、その後の由香の変化を語らない。怯えるかつての由香とぼくが見た遊んでいるような容貌の由香が、とても同じ人間とは思えなかった。――かつての自分をまるごと捨ててしまって、別の自分を作り上げてしまったかのように。
 確かアルバムもあったはずだ。何かがわかるかもしれない、ぼくは机の引き出しを開けた。一番下の引き出し。プリントやら教科書やらがいろいろ入っていて、その最下層にアルバムがあった。写真を現像した時におまけで貰える安物のアルバムだ。いろんな物に踏みつぶされていて疲れ果てていたが、ぼくが取り出したことで久しぶりに息を吹き返したように見えた。
 だけど、最近の日付の写真は無い。それどころか中学にも入学していない。小学校の頃の由香の写真だけで終わっていた。ぼくはぺらぺらと切り取られた思い出の中でぎこちなく笑ったり、無表情だったりする由香を眺めていてあることに気付いた。
 部屋のスタンドミラーにぼくを映して、それから写真の由香を見る。何度も見る。普通の人だったら首が痛くなる程交互に見て、最終的には由香の写真をじっと見る。

 ぼくは、由香に似ているのだ。
 かつての、今よりも少女だった頃の由香に、どこか通じる面影があった。

 アルバムをしまい、スタンドミラーに映った自分をじっと見つめる。男なのか女なのかわからないと思っていたが、由香に似ているならやっぱり女なのだろう。それにしても由香はこのことに気付かなかったのだろうか。自分の数年前の顔なんて、覚えていないものなのだろうか。よくわからないなあ、とぼくは体の向きを変えた。
 そこで、ぼくは気付いた。
 日記帳とアルバムを、読んだのはいい。由香のほんの僅かな過去を知れたことと、ぼくが由香に似ていることがわかったのはいい。けれどだ。

 どうしてぼくは、日記帳とアルバムのある場所を知っていたのだろう?

 慄然とした寒気がほんの少し、そっとぼくの背筋をなぞった。由香に教えられたわけでもないのに、どうして?
 ――けれどぼくにとってはやはり、真実や真理と同じくらいのことだった。日記帳の場所もアルバムの場所も、ここが由香の部屋なんだと当たり前のように思ったのと同じことだ。
 ぼくはあらかじめ知っていたのだ。
 そうだ。知っている。押し入れを開けると上段には洋服を入れた棚があって下段の右側の方に下着の入った棚がある。そして、その棚の後ろに隠してあるものも知っている。ぼくは押し入れを開けた。棚の後ろにあったものを引きずり出す。
 古い新聞紙の上にあったものは、小皿とフォークと、そして猫の餌であろう、レトルトパックの残骸だった。
 アルバムと同じように久しぶりに日の目を浴びたそれは、個人の部屋に隠しておくのには幾分汚い。ぼくは、隠してあったそれのことは知っていても、それが何の為に用いられたものなのかはわからなかった。おおかた、由香は猫を育てていたか、飼っていたのだろう。でもそれならばここに猫がいてもいいのに。
 そもそも団地だから、ペット禁止かもしれない。夕べ由香はペットと言ってすぐに難しい顔をした。ペットを飼えないことが不満なのだろうか。でもそんな程度のことにあの難しい顔が関係しているとは思えない。
 ぼくもペット、と呟く。思い出せそうで思い出せない。もし何かが思い出せたり閃いたとして、それは由香に関することなのだろうか。
 ――きっとそうだと思う。確証はどこにもないけれど、今日のぼくと同じように、ぼくの直感はその時のぼくを揺さぶったのだ。
 それから小皿をしまい、再び部屋を見渡した。あと知っていることは、とあれこれ考えるが出てこない。部屋の中央に立って、もう一度ぐるりと部屋を見回す。やがて気になる部分が出てきて、ぼくは何度もそこを注視した。
 近付いてみて、何も無いそこを触ってみる。日記帳があった机、電気スタンドの真横辺りの空白が、あるはずのない違和感をぼくに抱かせた。何度触ったり撫でたりしたところで、そこから欠けたものが現れるはずもない。

 それは何だっただろう。机に置いておくには、やや小さいものだった。別に何の役にも立たないただの小物だ。マスコット。装飾品やオブジェ。そしてそれは、その存在がこの机から欠けていることと通じるように、どこかが欠けていたはずだ。

 ――ぼくの肌がまた粟立つ。何でそんなことを、由香しか知らないことをぼくが知っているのだろう? 疑問は焦燥となって、何も持たないはずのぼくを急かす。
 その時も今日のように、頭が痛くなった。頭痛は激しく、考えるのをやめ、目を瞑って、ぼくは猫のように丸くなって眠った。視界の黒が思考を塗りつぶしていく。

 わからないことだらけなら、わからないと言っていればいいのだ。由香のために、ぼくにしか出来ないことがあると思った。でも、それだってやっぱりわからないと言ってしまえば、この苦しさをきっと回避できる。だからぼくは目を閉じ続けた。

 しばらくの無があった。だけど――やっぱりぼくは最初のように起き上がり、目を開ける。世界は特に変わらず目の前に広がっていて、ほんの少しの間なのにやけに懐かしく見えた。まだぼやけた視界の中で、窓辺のセーラー服が揺れた気がした。

 由香にしか、ぼくは見えない。そして由香しか知らないはずのことをぼくも知っている。そんなぼくにしか出来ないことがあるかもしれない。
 いや、きっとあるからぼくはここにいるんだ。

 強く強くそう思う。二回目の決意。

 わからないことだらけだけど、目を逸らしてはいけない。――勿論、今もなお。


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