ガラスのこじか




 色のついた硝子越しに見える空はどんな色をしているだろう。そこに満開の桜の枝が入りこむと、映る世界と空はどんな風に変わるのだろう。そんなことをぼんやり思いながら、ぼくはガラス細工越しに空を眺めている由香を見ていた。
 ぼくの目の前を、ぼくには気付かず大勢の人がぞろぞろ歩いていく。動きの風に合わせて、桜の花が散る。お城側の入り口から庭園の中に入る人、或いはお城の中の公園へ行って第二の花見に繰り出す人、出店で何かを買う人、お茶屋さんに行ってお団子やお饅頭を食べようとする人。男性、女性、お年寄り、子供、外国人、家族連れ、カップル、友達同士。桜の季節になると無料開放されるこの庭園に、これだけの人が集う。本当に様々な人がいる。多分県外からの観光客の人もいっぱいいるのだ。一目見ただけでは気付かないけれど。

 気付かない。ぼくのことも、由香以外、誰一人として気付く人はいない。

「なんか見覚えあるんだよねえ、これ」
 何の意味もなくぼくの目に映る人々の姿から、再び由香へと視線を移す。さすがにそれ越しに空を眺める行為には飽きたけれど、それでもまだ由香はガラス細工から目を離さないでいた。綺麗にマニキュアが塗られた指先で、それを弄んでいる。片足の欠けた鹿のガラス細工。出店の人がタダで譲ってくれたんだ、と言っていた。
風が吹く。桜の枝と共に、茶色に染め、緩くウェーブをかけた由香の二つに結んだ髪も揺れた。日差しに髪の色が煌めく。今日はちょっと暑いんだろう。暑いとか寒いとか、ぼくにはわからない感覚だけれど。
 指でいじることを止め、色々な角度から細工を見る。でもその行為にも飽きてしまったらしい。無造作にパーカーのポケットに突っ込むと、ベビーカステラ食べたい、とぼくに言ったのか、それとも独り言としてだったのか、ともかくそう呟いて、ぼくと並んだ桜の木の下から由香は去っていった。ぼくは、最初からそうだけれど、いやに手持無沙汰になって、店の行列に並ぶ由香をやっぱり見つめる他なかった。
 ぼくのことは由香にしか見えない。ぼくも由香にしか興味はない。けれど、ぼくの視線は明らかに別のものを追っていた。灰色のパーカーのポケット。そこに眠る鹿のガラス細工。見覚えがある、と由香は言っていた。
 ぼくもそれを、どこかで見た覚えがある。でもそれはおかしな話だった。だってぼくには一切の記憶がない。由香の部屋にあるもの以外で、見覚えがあると思うなんて。
 でも、それをおかしくないとするならば、ぼくの記憶の手がかりがあのガラスの鹿にあるということだ。
 頭の中で何枚かに分けられた、由香の姿が共に映るあの鹿の写真を一枚、また一枚と並べては最初から見ていく。ガラスで出来ていて片足が欠けている、鹿の置物。というよりもマスコット?
 きちんとピントを合わせようとしても、記憶の断片はぼやけたままだ。あやふやな文体や紡げないメロディと同じ。何もわからない。結局、ぼくは何も思い出せない。そもそも由香にしか見えていないぼくという幽霊のような存在に、記憶や思い出というものが込められていたところで何の意味があるというのだろう。何だかそんなことを思い始めてしまう。
 ぼくに最初からそういうものは、ひょっとしたらないのかも知れない。
 でも。

(でも、本当に?)

「ねえ。なにぼうっとしてんの?」
 少し顔を左に向けると由香がベビーカステラを頬張りながらぼくを見ていた。あげないからね、とまた一つ、その口は可愛らしく飲みこんでいく。別に何でもない、とぼくは首を振った。あっそと由香は素っ気なく返し、またガラスの鹿を眺めた時と同じように、二人桜の下に並ぶ。ぼくは由香以外の誰にも見えないから、由香はつとめて一人でいるように振る舞っていた。時々零す言葉は、全て独り言だ。
 ぼくらのすぐ傍を、近くの中学校の制服を着た少女達が談笑しながら通っていく。大きなスポーツバッグを肩から下げていた。部活帰りなのだろう。すれ違う一瞬、彼女達がこちらを見たような気もしたし、何かこそこそ話をしているようにも見えた。
 気にし過ぎだ。ぼくは首を掻く。それでも由香は何かが不満だったのだろう、まるで怒ったようにカステラを口に突っ込むと、何も言わず坂道を下っていった。歩幅は大きい。人にぶつかっても、由香は気にしない。ぼくが謝ろうと思っても、人から見えないぼくにはなす術がなく、ただ黙って彼女の後を追うだけだった。
 由香も本当なら、制服を着てお花見に行くことが出来た。――本当なら。その未来を得ていればの話だ。ぼくは、由香の制服がずっと、持ち主に着られることなく部屋にかけられたままなのを知っている。
 庭園入口の方を振り返った。よく見ると、制服を着ている由香と同年代くらいの子達は結構いた。どの子も友達と仲良く談笑しながら歩いていて、すれ違った由香のことなんか、脳の一時的な記録にもきっと残してはいない。
 坂道を下り、庭園下のバス停に程近いところで、由香はまたあのガラス細工を取り出していた。傍らにはベビーカステラの袋が転がっていた。ぼくが拾う前にそれは風に飛ばされてしまい、前方に広がる大きな道路を走る車に何度も轢かれてしまった。ぼくは肩を竦める。
「あーあ、なんか、やっぱりあんまり面白くなかったね」
 お花見のことを言っているのだ。由香は掌の上でガラスをころころ転がす。
「こんなんなら家で寝てた方がマシだったし。最悪」
 由香が誘ったくせに、とぼくは声には出さず唇を窄めた。だけど、最悪とまではいかないんじゃないだろうか。天気はいいし、桜は綺麗だった。あるいは、ぼくが気の利いたことを言えてたら、由香は楽しんでくれただろうか。
 何も言えないぼくを無視して由香は街の方へ歩き出す。ガラス細工はもうとっくにポケットにしまっていた。携帯電話をいじりはじめたから、ぼくはやっぱり無言だった。車が通り過ぎる騒音に、桜の枝がしなる音とぼくと由香の存在の音はかき消されていく。下を向いて、ぼくは歩いた。
「そうだ」
 交差点近くで声を聞き、立ち止まる。気付くと由香よりも先を歩いていた。由香は何やら看板を見ている。ライトアップ、とぼくは看板に書かれた文字を呟いた。
「夜ライトアップあるんじゃん。こっちの方が面白かったかも。行こうよ。今日。ていうか今日までじゃん」
 由香がぼくに触れることが出来たなら、ぼくの服の裾を引っ張って行こう行こうとせがんでいたところだろう。行きたいなら行けばいいよと返事したが、素っ気ないそれは、当然と言えばそうなのだが彼女のお気に召すものじゃなかった。
「じゃああんたここで待っててよ夜まで。街で買い物してるし私。夜までずっと立ってたこともあるんだし、寒くもないし暑くもないしお腹も空かないんだし疲れもしないんだから、いいでしょ?」
 ひどい言われようだったが、ことごとく事実だった。とやかく言う権利はない。ぼくは頷いた。由香はそれでもまだ何か不満らしく、看板をじっと見つめていた。どうやら終了時刻の辺りを気にしているらしい。
 看板によると庭園は九時半に閉まる予定だった。
「ねえねえ」
 何かよくないことを企んでいる顔をしている。ぼくは唾を飲む。
「ライトアップ終わった頃、ここに忍び込まない?」
「忍び込む? 無断で入るってこと?」
「忍び込むっていうか、ライトアップ終わってもずっといるってこと!」
 ぼくの顔は明らかに難色を示しているのに、由香の思いつきの勢いは止まらない。
「大丈夫、広くて暗いから隠れれば絶対ばれないよ!」
 返事も聞かず、じゃあ待っててねと由香はちょうど青信号になった横断歩道を渡って行った。人波に紛れてしまい、すぐに彼女を見失ってしまう。ため息を一つ。
ぼくは石垣に座って夜を待つことにした。でもライトアップ開始時刻までかなりある。終了時間を基準にするなら尚更。もう一つため息をつき風に揺れる桜を見上げた。
 夜にここに残って何をする気なんだろう。かくれんぼだったら鬼が必要だ。ぼくが鬼になる? 誰にも見えないから? ――いや、かくれんぼでも鬼ごっこでもないだろう、いくらなんでも。そもそも何をする気でもないのかもしれない。
 由香のすることもわからない。学校にも行かず、いつも大体、学校に行かない子達が集まったセンターという所で知り合った、ちょっと不良が入った友達とばかりつるんでいる。かと言って、ものすごく悪いことに手を染めている風でもない。まるで有り余る日々を惰性で過ごしているようなものだった。何を目的にしているのだろう。
 でもそれはぼく自身に対しても言えることだ。まったく、ぼくは一体何が目的で由香という子のもとにいるのだろう。でも何度自分に訊いたところでその目的は思い出せない。これが何回目の堂々巡りか。
 そこで、ぼくはあのガラス細工のことを思い出す。そして――桜を見上げるのにも飽きてきたから、視線をもとの位置に戻す。ライトアップ開催の看板がちょうど視界に入り、更にそこに、桜の花びらが遊ぶようにはらはら舞い、空間を縫っていく。

 夜と桜、ガラス細工。

 突然、脳の奥できんと高い音が聞えた。鼓膜を突き刺すように、頭痛を伴ってそれはぼくの何かを起こそうとする。夜、桜、ガラスの、片足が欠けた鹿。小さな鹿だ。
 頭痛でうんうん唸ったところで誰も気付く人はいない。時間はまだ多分五分も経っていない。長閑な春の日は何事もなく、彼らの記憶の中に積まれていく。道端に溜まる、桜の花びらのように。――頭痛を鎮めようと、ぼくは何度も頭を擦った。 ぼくには痛覚が無いのに、こういう痛みだけは感じられるのは不思議だなと思いながら何度も手を往復させて、ぼくの中の何かを宥める。
 でもいい機会だ。由香がここに戻ってくるまで、ぼくのこれまでをおさらいすることにした。この頭痛はぼくの中で生まれていた、何かが思い出せそうな予感と直接繋がっている。それは確信と言える。
 その確信もまた、予感や虫の知らせと変わりないあやふやとしたものだ。けれどぼくは、今夜何かが動き出すという予感を、ほとんど事実として受け止めていた。

 ぼくは、ぼくが何者なのかということを、思い出さなくてはいけない。

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