夫の書斎へ紅茶を差し入れに行ってみると、ちょうど夫はうーんと背伸びをしているところだった。
 原稿が先に進まない、と私にぶつくされていたのに、のんきだなあと思いながらちょっとお茶目に名前を呼んでみた。

「はーじーめーさんっ」

 おおっと一瞬野太い声を上げ、回転イスをこちらに向ける。驚かせないでくれよと控えめな態度で笑っていた。私も微笑む。普段紳士然としている夫のちょっとした驚きは可愛い。

 紅茶を書斎のテーブルに置く。寒いなあと、すぐ出るつもりだったのに、紅茶のポッドで冷えた手を暖めていた。紅茶にミルクを入れた夫は眼鏡の分厚いレンズ越しに紅茶を見ていた。紅茶の表面は白い水たまりができている。

「間違って入れちゃったの? ミルク」

 私、飲みたいなと続けようとしたが彼はいや、と手を振る。


「いや、あのね。……ちょっと不思議な夢みたいなものを見てね」
「だから、夜はちゃんとお布団で寝なさいって」

 原稿に向かって居眠りしていることは夫にはよくあることで、その度私は風邪をひいたら大変だと口やかましく言っているが、夫はこの机で居眠りという行為が好きらしく、やめない。それに作家という職業上、いつ起きてもいつ寝てもいい。夫の生活リズムはめちゃくちゃだ。


「そういうんじゃないんだ。白昼夢なんだろうね。……真っ白な部屋に行くんだ」
「はじめさんが」

「うん。
 そこはいろんなもの、ありとあらゆる家具が真っ白で、光も白いんだ。
 神々しいってああいう白さを言うのかもしれない。

 そしてそこにはね、一人の女の子……男の子かもしれない、とにかく小さな子がいる。
 その子は僕の顔を見るなり近寄って遊ぼうと僕にじゃれついてくるんだ」

「ねえ……怖い話か何か? やだ、私怖いの嫌いよ」

 先に用意されているかもしれない恐怖を想像すると、正直に鳥肌が走った。小さい頃から今まで聞いた怪談や都市伝説が思い出したくもないのに、イメージとして頭に浮かんでいたりする。

「違うよ。でも聞きようによっては怖いかもしれない」

「やだあ」

 まあそう言わずに、と夫はミルクを入れた紅茶を私によこした。飲んで恐怖を鎮めようと紅茶を見つめる。まだ白い油は染みのように紅茶に浮いていて、私は思わずスプーンをぐるぐる回しそれを破壊した。


「僕は……ずーっとアイデアが出ない、原稿が進まないってぶうたれてたけど、その子と会っていた時もきっと難しい顔をしていたんだけど……
 不思議なことにその子と遊ぶうちにどんどん書きたいことが出てくるんだ。形には出来なくて、まだ抽象的なものに過ぎないけど。
 それで、よし、書こう! と思った時、君が入ってきたんだ」

「ふうん……」

 思ったより怖くは無かった。

「その子もその部屋もなんなのかしら」

「さあ。
 あの白さは意味なんてものすら寄せ付けない感じもしたから、何と考えるのも。
 とりあえず、先に進めそうでよかったよ」

「そうね。私も担当さんに泣き顔されるのはたまらないのよ。その部屋に何度も出入り出来たらいいのにね」

 さりげない皮肉に夫は唇を突き出すだけだった。私は笑う。

 紅茶に落とされたミルクはもうすっかり紅茶と同化してミルクティーの香りが鼻孔をくすぐっていた。
 私は飲む。うん、美味しい。久しぶりに飲むものだったが、上手に淹れられた。お気に入りの茶葉だったので尚更だ。

「おいおい、僕にもくれよ」

「カップ一つしかないもの、いま持ってくるわ」

 書斎を出て、そういえば、ミルクはさっき使ったのでもう最後だったと気付く。

でも、ストレートでいいか、と私は鼻歌を歌いながらキッチンへと戻った。



(了)


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