それから数年が流れ雨音は高校生になった。多くの思春期の少年少女達がそうなるのであろうが、雨音にも初めての恋が訪れた。春が来た。雨ではなく、暖かな風が吹き色とりどりに花が咲き新しい命が芽吹く季節が雨音を歓迎したのだ。何かと言うと落ち込みがちで暗い性格の雨音だが、初恋の君がひっそりと心の中にいるというだけで気分が少しだけ明るくなっていった。自分が恋をしているのだ、自分も恋が出来るのだ、そう浮かれてしまう。きっとこれ以上何も進展することは無いだろうけれど、雨音は毎日をそれなりに楽しく過ごした。高校生活も大した事件を起こさず順調に進んでいく。
 恋をする。それだけでも消極的な雨音にとって希有なことだというのに、雨音には更に希有なことが起こる。友達の仲介を以てしてであるが、雨音はその男子と付き合う、の段階に至ったのだ。一緒に下校したり、休日にどこかに出掛けたり、電話やメールを交わしたり、ささやかではあるがそれはもう立派に、高校生としては等身大の彼氏彼女の姿であり、恋愛として成立していた。こればかりは本当に奇跡だった。それまでの雨音の人生で確実に幸せの最高潮を記録していただろう。雨音は仲介してくれた友達に感謝した。彼氏である男子に感謝した。関係のない友達にも、両親にも、この世全てのものにすら感謝したくなった。

 だがしかし、肝心の自分という存在に、感謝の代わりの自信を抱くことを、雨音はついぞ出来なかった。

 周りに感謝をし過ぎ、暖かい周りを羨むからこそ、雨音は自分に自信が持てないことを気にし過ぎていた。外見的魅力にも欠け、内側はもっと自信が無い。学校の勉強もいまいちで、流行りの服装や音楽、芸能にもいまいち疎い。努力はしているがあらゆることが空回りになってしまった。相手はそれでも構わなかったようだが、申し訳なさからその愛を壊れものを扱うように接するようになってしまう。どんどんどんどん、元からそうだったと言えるのだが、雨音は臆病になっていった。
 そうして交流が結局切れていく。大事にしていたはずの初々しい愛が、姿を消していく。
 恋が実った日も、デートの日も、晴天が続いていた。けれど、やはり雨音にとって不幸は雨と共にやってくるのだ。

 その電話を貰った日、外は激しい雷雨に見舞われていた。季節はやはり梅雨だった。もう何ヶ月か頑張ればその彼氏とは一年続いた、と言えることになる頃合いだった。

「ごめん」
 聴き慣れたそれは、好きな彼氏の声ではない。二人の仲を取り持ってくれたかの友人だ。
「でも内緒にして付き合うのは良くないって思って」
 簡単に言ってしまえば、その友人が雨音の彼氏と付き合うことになったのだ。雨音との仲に不満を持ったのか、あるいは不安を感じるうちに友人の方に惹かれるようになったのか、単純に友人との付き合いの方が長いからなのか、二人が結びついたことについては、あまりのショックからか雨音はよく覚えていなかった。友人の方もあまりはっきりとは言わなかったような気がする。外の雷雨の音がうるさ過ぎた所為もあるかもしれない。
 そしてそれこそが正解かもしれないのだ。その時の会話を思い出すことは雨音には難しかった。自分自身が果たして、本当はどんな気分でいたかも思い出せない。けれどもその時の空の様子や窓を伝う水滴の動き、風に揺れる木々の姿、温度や湿度は今まさにそこにいるかのように思い出せる。目蓋の裏には電話を持ちながら呆然と窓を眺めている自分の俯瞰した姿さえも見える。

 雨はまたしても大切な人を、大切なものを奪っていく。

 どうしてそこまでして雨が自分を追い詰めるのか、ただただ不思議でならなかった。突き放された感覚から自分を突きあげていくのは激しい憤りだ。しかし憤りという槍の先は雨音から彼を奪った友人でも雨音を捨てた彼氏にでもなく、神にも等しい天候に向けられた。そうなったのは、ひょっとすると雨音が、人に対して思い切れない程度に優しい人間だからかもしれない。人間はどうにもならないことを時として天や神、悪魔の所為にする。そういう基本的にして大きなシステムが雨音の中にあって、自然に働いていたのかもしれない。
 ともかく雨音はかつてのように雨の外を駆け出した。そして近所の公園のベンチに、やはり雨に濡れながら座った。何もかもが信じられないでいた。彼氏が奪われたことも、友人と彼氏が自分を裏切ったことも、雨が降ることも、そして自分自身の存在さえも。
 雨よ、なくなれ。雨音は願った。止んで欲しいのではない。雨自体が消えればいいと願った。それは瞬時に、世界が消えればいいと言う言葉に置き換えられる。相手へのほのかな愛を大事にし過ぎて崩壊を止められなかった自分が消えれば、こんな惨め過ぎる自分が消えてしまえばいいのだ。世界とはすなわち雨音自身だ。そうすれば、こんな風に嫌な気持ちになることもない。友人達に後ろめたい気持ちも抱かせない。
 雨音はかつてと同じように思った。

 どうして、自分はこんなところで生きているのだろうか。どうして生き続けなければいけないのだろうか。どうして、どうして。疑問を抱くくらいならいっそ、消えてしまえばいいのだ。

 雨音の握力は弱い。けれども左手首をぐっと握り締める。それだけでは命が潰えることなどないけれど、雨音は初めて殺意を持った。そうして自分を確かに、殺そうとした。呼吸することすら忘れていた。
 けれども結局は苦しくなって、手を離し、激しく息を吸った。それから自分を襲ったのは空虚な疲労感だった。ぐったりと肩を落とし、激しい雨に打たれた。雨はまだ勢いを弱めない。
 ふと雨音はあの傘の君のことを思い出した。ぱっと消えてしまった幻に過ぎないものの、不可解な現象として印象深く雨音の心に残っていた故だ。あの時のようにどうにもならない想いを抱え、こうして雨に濡れている。思い出すのは自然だったかもしれない。
 あれが幻だろうと幽霊だろうと、見知らぬ男の人にあんなに優しくされたのは初めてだった。それがたとえ傘を差し出すと言う単純な行為でしかなくともだ。ほとんど忘れていた傘の君を思い出したのは、雨音が少しでも男性を、他人を想う恋しさを知ってしまったため、ささやかでも触れる熱を覚えてしまったため、そして喪失を迎えてしまったためであろう。
 そう、喪失した。全ては終わってしまったのだ。
 終わってしまった二人に、自分に、この世界に、意味などない。雨は依然として激しく降る。どこかで雷も鳴っている。公園にこうしてずぶ濡れになっている人間など雨音しかいない。いいや、この世界にはきっと、誰もいない。
雨音は雨の中、そっと自分を終えるように目を閉じようとした。
 その時だ。激しい雨の音がそっと収まる。反射的に雨音は閉じかけた目を開く。視界は、雨音の思った通りさっきよりもやや暗い。雨音に影が落ちている。もしかして、と雨音は少し上を向く。傘だ。それも和傘。あの傘の君の傘だ。
 雨音が振り向く。傘に顔は隠されているが、その人が着ている服装はやはりぼろぼろの学ランだった。ベンチを降りて顔を見に行く。数年前と同じ顔。もう記憶にないはずなのに、今まさに記憶の泉から引っ張り出して来てきちんと照合したかのように、雨音にはすんなりとわかってしまった。間違いない、あの傘の君だと。短くさっぱりとした髪、時代がかった学帽、レトロであちこちボロボロな学ラン、雨に打たれる下駄。
 そっとこちらを向いて浮かべる優しい笑みも、数年前と全く同じだ。
 笑みを深める。彼はやはり、そこで消えるのだろうか。
 けれども、違った。

(雨の音を聞いて)

 音にならない音が、雨音の脳にこだまする。きっと物理的な音は発されていない。雨音にだけ聞こえる彼の音は涼やかで、しっとりとしている。清らかなまでに優しかった。

(君の名を聞いて)

 もう一つ、水面に落ちる雫の音よりもうんと小さく雨音に響く。句点を打つように笑った彼は、初めて出逢った時と同じように霧が晴れるように消えてしまった。
 雨は、少しだけ勢いを弱めたようだった。激しいものよりも不思議と、はっきりとした雨の音が鼓膜を打つ。雨音はそれに身を濡らせながら、傘の君が立っていた場所を呆然と見つめていた。一瞬浮かべた笑顔が、少しの間付き合っていた恋人のそれよりも深い意味を持って雨音に迫ってくる。それは頬を染める類のものではない。もっともっと、雨音の根幹を揺るがすような深いものを秘めた何かだった。
 雨の音だけが雨音を包む。自分の名前。傘の君は雨音の名前を知っていた。雨は依然として冷たく雨音の肩を叩いている。

(雨の音……)

 雨音は天を仰いだ。重い鈍色に歪む空は到底青い空に成り得るとは思えなかったし、天から落ちる雫は哀しみを秘めた凍てつく爆弾としか思えない。目を閉じて雨の音を聞いても、うまくチューニングの合わないラジオのノイズよりももっと不快で意味不明なものでしかなかった。
 全ての意味が読み取れない。自分の小ささに、雨音はもどかしさを感じざるを得ない。そして傘の君にまた傘のお礼が、ありがとうが言えていないことに気付いてしまう。ああ、そうだった。自分に対する、これまでも抱き過ぎている失望の籠った驚きで目を開く。偶然に雨粒が目蓋を打って、雨音はまたしても目を閉じる羽目になった。それも強く、深く。

 そうしてまた、雨の季節は終わっていくのだ。
 雨音は少女から女になろうとしていた。

next back
novel top

inserted by FC2 system