「あっち側に行ったら、戻ってこれなくなる……」
足を止めて、何気なく私は呟いた。ぼたんが来る気配が無い。いつもだったら本当に、しつこいくらいまとわりついてくるのに。いつもの行いを反省しているのだろうか。
向こう側に行きたがる彼と、何があろうとも向こう側には行かないと決めた私の間には、それこそ、普通にのびのびと生きて飼い主の愛を一身に受け暮らしている飼い犬と、宇宙の塵芥になって人々の記憶からも歴史からも消え去りそうな実験犬との違いくらい、大きな差があった。
私は、絶対に恋をしないと決めた。
そして彼は、恋をするために生まれてきたという。
「馬鹿みたい」
本当にそう思っているから、声に出した。だけど梅雨めいた湿った重い空気の中で、音は籠ってしまうから、ぼたんには届かない。ただ私に跳ね返る。私は振り向かなかった。だから彼が本当はどこにいるのかもわからない。私はもしかしたら最初から独りだったのかもしれない。あのぼたんは幻だったのかもしれない。
そうだ。恋なんて、独りになってしまうのがオチなんだよ。
私は誰にでもなくそう心で呟いた。
向こう側に行ったら帰ってこれないのだ。だって、静お姉ちゃんや、圭さんや、先生は、三人仲良く死んでしまったじゃないか。
圭さんの亡き骸、遺書、飛び散った血痕が私の脳裏に甦る。
失踪した姉、自殺した先生。独りになった私。
みんなみんな、恋が悪い。
誰かを好きになることは罪だ。
「クドリャフカは……そういえば雌犬だったっけ」
私は振り向いた。一応向こう側に、ぼたんの姿は見えた。彼は星を見ながらのんびり歩いていた。その姿に安堵したのか呆れたのか、自分のことなのにちょっとよくわからない。星を見ていたかったのか、私の真似をしたのだろうか。
私は立ち止っているのに、随分、彼の姿が離れて見えた。
もう私を置いて、どこか遠い向こう側に行ってしまったように。
「べ、別に、置いていかれたっていいんだけどさ」
また私は独りごちた。恋をしないと決めたのは私なのだ。今更孤独に怯えてどうする。
だけど――私は思い出す。別の意味での向こう側が、目蓋の裏に迫りくる。
色々あった日々の中の、それ。
いつの日のことだったか、彼の瞳が、狂気の光に満ちた日のことを。
普段は無垢で、素朴な、人懐こい潤んだ目をしているのに、あの日は人が変わったのだ。そして暴力を、嵐が木を薙ぎ倒すかのように残虐に絶対的なまでに振るった。私にではないけれど、研究所の刺客や、同じ実験体だった八雲さんや八代君に。それはもう容赦が無かった。善悪の区別も付かない子供みたいだったから、逆に彼に似つかわしい気もしたけれど、そんな甘いことを思う暇は当時無かった。今だって、そう思うのはおかしいと咄嗟に判断出来た。似合うわけなんかない。
八意さんは、たまに言う。自分達は「狂人」なのだと。
国を平和にしたけれど、その世界に絶望して仙人になった彼らの祖先は、庶民には理解されず、「狂人」と呼ばれたそうだから。
あの日のぼたんは、怖かった。
向こう側に――狂って欲しくなんかなかった。
こう思うのは、好意なんかじゃない。ましてや恋情なんかではない。単なる私の希望だ。
だって怖いから。ぼたんがぼたんじゃないのが怖いから。ただそれだけだ。
「だから……あっちに行ったら駄目だよ、ぼたん」
自分の身を守りたいだけ。彼が好きとかじゃない。断じてない。
「どっちの向こう側に行ったって、帰れなくなるから」
クドリャフカみたいなのは、もういいんだよ、と最後は溜息交じりだった。
どっちの意味の向こう側へ旅立ってもお終いだ。私みたいな恋愛を捨てた女にだって情はある。これは、二ヶ月でそれなりに仲良くなったぼたんに対する、何の変哲もない情けだ。特別な意味はない。
「こころ、どうした? 待っててくれたの? お腹空いて動けないのか?」
「あんたと一緒にしないでよ」
やっと追いついたぼたんは、私が何を思っていたのか、願っていたのかなんて全く考えていなさそうだった。彼の考えることは大抵食事のことか私のことらしい。嬉しくもなんともない。彼の犬っぽい能天気な笑顔を見ていたら、今まで考えていたことなんて宇宙の中で言うチリのようなものでしかないような気がしたので、もうあれこれ思いを巡らすのはやめにした。疲れる。
またぼたんは抱きつこうとするので私はさっと飛びのける。だけど今度は先を歩かない。並列して進む。それでもぼたんは満足そうだった。