クドリャフカのゆくえ



 お風呂上がりの濡れた髪に、夜風が涼しかった。そうでなければただの温くて不快な梅雨の風だっただろう。ただでさえも面倒臭いことを引き受けたのだ。その分得るものがなかったら理不尽だわ、と私は当たり前のように風を受けて前進した。
 土手に着いてしばらく辺りを見回すと、橋からそう遠くない所にあいつはいた。ごろりと河川敷に寝転んで星でも見ているんだろう。暗くてよくわからないけど、きっとにこにこした顔で。だってあいつは、始終笑顔を絶やさない人間だからだ。一緒にいる時間が多い所為か、嫌でもわかる。そう、私といなくても、その笑みは絶えることはないだろう。


「ぼたんー、何してんのよ、帰るわよ」
「こころ?」


 私の姿に気付くとすぐ飛び起き、星と河川敷に何の名残惜しさも感じさせずばたばたと私に近づいてきた。飼い主に飛びつく犬のようだった。よく抱きつかれるので私はさっと身を交わす。空虚を腕に抱くぼたん。悲しそうな顔を見せたけど、よくあることだ。何てことのない日常の一コマ。それは、夜の、星明かりも月明かりも頼りない、たった二人きりの状況でも変わらない。うう、だなんてわざとらしく唸るけれど気にしない。
 私、久方こころがこの八房ぼたんに出逢ったのは、もう二か月程も前のことだ。友達と肝試し感覚で忍び込んだ裏山の廃病院に、彼は今と変わらない無垢な瞳をしてしっかりと存在していた。


「まったく、本当野良犬みたいにどっかフラフラ行っちゃうんだから」
「だって俺犬だし。犬は、よく実験に使われるからねー」


 今更だよ、なんてぼたんは冗談のように茶化した。
 実際そうだった。彼等は、どこかの都市の研究所から逃げ出してきた、人体実験のモルモットだったという。モルモットというより、ぼたんが言うように「犬」と言った方がいいんじゃないかと私が思うのは、ぼたんの行動や思考がどことなく犬っぽさを感じさせるからだろう。私や思兼さん――八意思兼さん。彼も研究所から逃げてきた、ぼたんの兄のような、保護者のような存在の人で、同じ実験体――の言うことはよく聞くし、私が呼ぶと見えないしっぽがふるふると振られているように嬉しがる。そして私は迷惑がる。犬はそれ程好きじゃないのだ。
 そんな彼等は何の開発の餌食にされていたかというと、犬とは全く遠くかけ離れた、「仙人」というのだから、驚きを通り越して呆れる。大の大人が一体何の目的で、どれだけのお金と労力と頭脳を使って仙人なんてわけのわからないものを作ろうとしているのだろう。思兼さんは、首都移転計画がどうこうとか、八人いた彼等の祖先が仙人と化したからだとか何とか言っているけれど、私みたいな一介の女子高生には、二ヶ月たって色々あった今でもよく理解出来ない。そう、色々あった。
 実験と犬。私は最近見かけた何かがその二つの要素に関連していたはず、と思い出を探る。その色々を振りきるように。


「星が綺麗だよなーこころ」
「あんまり見えないじゃない。ちょっと、くっつこうとしないでよ、暑苦しい」


 腕を回してくるぼたんを切り抜け、しばらく独りで先に進んだ。まったく、とため息をつきながらも私は空を見上げた。田舎町だからといって、山奥程星が見えるわけじゃないし、特別星には興味無いのだけれど、思い出を探っている内にそうなってしまった。
 最近、ある小説を図書館で見つけた。だけど私は恋愛小説が大嫌いなので、結局タイトルを見るだけで終わった。だけど私はそのタイトルに含まれた単語が気になったのだ。
 それは、スプートニクというロシア語。
 妙に気になって、後になって調べてみた。それは、私が生まれる遙か昔に宇宙へ旅立った宇宙船――じゃない、人工衛星のことらしい。宇宙船でも間違ってはいないみたいだけど、私が見た写真では到底船と言えるものじゃなかった。
 だけど、それに乗せられたものがいる。それが犬だった。確か、クドリャフカだとかライカだとかいう犬。私は歩きながら目を凝らして空を見つめたけど、別に目ぼしい星も流れ星も飛行機もUFOも見つからない。ただ底のない空が広がっている。
 犬は戻ってこなかった。というか最初から、クドリャフカを乗せたスプートニク二号は地球に戻る予定なんか無かった。犬は、宇宙開発という名の実験の中で死んでしまったんだろう。ソ連がどうの、東西冷戦がどうのこうのと書いてあった気がするけれど、よく覚えていない。
 ただ一匹の犬だけが宇宙に取り残された。それだけが私の記憶に残っている。



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