三千秒の対話



 時代を時めくアイドルグループASAHINAのメンバー・朝堂瑠璃子(十九歳)とCD一枚につき三秒と喋れると言う握手会に、一人で千枚ものCDを買ったという者がいるという情報が事務所に飛び込んできたのは会の三日前のことであった。
 勿論事務所は騒然となった。千枚? 物量的にも金銭的にも個人が買い集められる範疇を軽く超えている。およそ人間の仕業ではあるまい。何かの間違いではないか。あるいはASAHINAをよく思わないいわゆるアンチの、アンチと見えないアンチ行動ではないのか。関係者各位は表情を曇らせた。
 ダウンロードで音楽を購入するのがもはや一般的となっているこのご時世、CDで音楽を入手するなどと言う手法は既に古典となっている。CDは全盛期の価値を失い、まさしく音楽産業廃棄物の運命を辿りつつあるのだ。だがそうであるにも関わらずアーティスト人気を端的に示すCD売上はいまだ音楽業界の権威として君臨している。しかしながらCDを買おうと言う層は減少している。この二律背反を解くには、つまり売る為には何が必要か。敢えて言い切ろう。付加価値である。
 ASAHINAを始めとした各アイドルグループはこの手法を取り見事CD売上チャートの上位を独占することになり、ここにアイドル華やかなりし時、人によってはアイドル戦国時代と揶揄される一時代が築かれたのである。その是非はさておくにして、その付加価値としては例えば初回限定DVDであるとか、初回特典ボーナストラックCDであるとか、初回版を更にA盤B盤に分ける商法であるとか、アイドルメンバー人気投票の権利(CD一枚につき一IDが付与される)やアイドルとの握手会やサイン会、各種イベントなどへの参加応募券、等々である。
 無論音楽を聴く為にCDは一枚で十分なのだ。だが一枚では例えばお気に入りのあの子の順位を上げることはできない、何度も握手することは出来ない。となると枚数に物を言わせなくてはなるまい。そこで一人で何十枚、百何枚と買う猛者共が嘘ではなく、現れてくるのである。CDは応募券だけを求め購入され、それを抜き取られた後どうなるか。文字通り、廃棄物になるのである。産業はつかぬとも、れっきとした音楽廃棄物になるのである。
 そして、この廃棄物を生み出す――つまりはそういう商法を仕掛ける側も仕掛けられる側も手酷い状況に存在するアイドルグループの筆頭がASAHINAであり、それ故ASAHINAをよく思わない勢力、つまりはアンチが多いのである。アンチ、程でなくとも、あまり良い印象を抱いていない層は一般的なリスナーにも多い。ASAHINAに仕掛けられるアンチ行動の数々は枚挙に暇がない故ここでは割愛するが、このCD千枚購入というとんでもない所業も、アンチではないかと言う意見が出されたことも、無理もない文脈の上にあるのである。
 関係者の懸念をよそに果たしてその千枚購入したと言う人物は本当に現れた。CDは全て正規の品であったし、領収書も揃っていた。複数人が慎重に対話を重ね、否アンチ認定もされた。よって、一枚につき三秒なので千枚で三千秒、つまりは五十分間、朝堂瑠璃子はその人物と対話しなければならない。と言うことになってしまったのである。
「五十分も何を喋れって言うの」瑠璃子の口調は愚痴めいていた。「だから変な企画はやめようって言ったじゃん」
 大丈夫だよルリちゃん、変なことされないようにちゃんと人をつけておくし、監視カメラや録音機材もばっちりにしておく。とマネージャーも事務所の人も緊張し青ざめる瑠璃子を優しい口調で宥めた。自分自身も落ち着こうとしている口ぶりだった。無理もない。予想外の事態なのだ。うん。頑張る。瑠璃子は言われる度に彼らに笑顔を向けた。アイドルは人を笑顔にさせなくてはいけないのだ。自分が笑顔でなければどうする。
 そしてその人物との対話がやってきた。しかし部屋には瑠璃子しかいなかった。部屋にボディーガードなりSPなりがいるものだとばかり思っていたのに。瑠璃子は唾を飲む。その唾が嚥下した瞬間、向こうの扉が開いた。その千枚の猛者が入って来たのである。瑠璃子はぐっと息を押し込みながらストップウォッチを作動させた。さあ、スマイルスマイル。たかが対話に千枚買う得体の知れない人であろうと、アイドルは常に平等にファンに接しなければいけない。千枚買うに見合った贅沢な、最高の時間を与えるのだ。
「こんにちは、朝堂瑠璃子さん」
 瑠璃子は当然、自分達のファンにありがちな体型や外見の男性――やや作為的な描写ではあるが、小太りで汗っかきで、推しているメンバーやグループの名前が入ったTシャツを着て息を荒くさせている中年の男性を想像していた。
 だが入室してきた彼は違った。涼しげで端正な顔立ち、少しだけ長いが決して無精には見えない、いいやむしろ美しさを際立たせた艶のある髪、痩せてはいるがところどころ硬い男性らしさの見える体つき、質素なシャツとジーンズに、手首にはめられた細い二つのブレスレット。勿論、こういうアイドルファンもいないことはないし、瑠璃子と三千秒も向かい合うのだ、きちんと身なりを整えてきただけとも言えない。だがしかし、彼はずっとずうっとそのままだったんだろうと瑠璃子はほとんど直感に近い形で理解した。彼は只者ではないのだろう。勿論、千枚買った時点でそうなのだが。
 この人お金持ちなの? すっごいお金持ちの息子? すごいな、漫画みたい。そう思いながらも瑠璃子自身もアイドルである以上漫画に登場しそうな存在であるということには気付いていなかった。もとより、瑠璃子は自分ではなく、ある別の人物を思い描いていたのだ。だがしかしその人の像は幻よりも儚く消え去る。否、他ならぬ瑠璃子が消し去った。
「こんにちは、ええと、お名前……」
「僕の名前は知らなくていいです」
「いいんですか? 千枚も買ったのに」
「ファンというのは常に無名でいるべきです」
 言い切った。微笑がその自信の表れだろうか。だがしかし高慢には見えない。瑠璃子は思わずきょとんとしてしまう。
「じゃああなたは千枚も買ったすごい人、ただそんな名前で私の記憶に残るけどそれでいいんだ」
「いいです。僕が興味を持っているのはそんなことじゃないんですから」
「そんなことじゃないかあ」
 穏やかに微笑し続ける彼を見て、なるほど浮世離れしている人なんだ、妖精なんだな、と幾分失礼なことを思う瑠璃子。面白いかも、と自分も微笑したはいいが肝心のことに触れていなかった。
「そういえば、ここにはボディーガードや記録するスタッフ? がいるはずだったんですけど、どこかで見ました? 外にいたとか……」
「ああ、必要ありませんので消してしまいました」
 瑠璃子は耳を疑った。消す? しかし追及はしなかった。彼なりのユーモアセンスなのだろうと理解した。それにこの人はそんなに危ない人ではないだろう。何だかひ弱そうだし。今をときめくアイドル、そして芸能人としてはあまりに早計に過ぎ危機感に欠けているがしかし、瑠璃子はそう思っていた。
 彼は涼しい微笑を湛えたまま口を開く。
「僕が聞きたいのはあなたのことです。朝堂瑠璃子さん。率直に訊きます。あなたは何故アイドルを志したのです?」
「え、それは、えーと、やっぱダンスとか歌とか好きだったから」
「しかしあなたはアイドルになったことで何か掛け替えのないものを失ったのではないでしょうか?」
「それって、つまり何? 恋愛とかっていうこと?」
 瑠璃子の口調は、聞く人によれば憤りが感じられるものであったかもしれないし、どこか嘲笑めいたものが感じられるものであったかもしれない。もしくは哀れみであるとか。昨今どこのアイドルグループにも、男女を問わず、アイドルは恋愛禁止、という暗黙の了解が通っていた。アイドルは皆のものである故、誰か一人の特別になってはいけないのである。空は空であり海は海であり太陽は太陽であるのと同じことである。皆のものは誰かのものにはならない。それが宇宙規模の孤独を孕んでいることに気付かない程、瑠璃子は馬鹿ではなかった。
「アイドルは恋愛禁止。常識でしょ。もしかして、何、お兄さん。千枚買ってまでして、私に告白しに来たの?」
「いいえ。別にそういうわけではありません」
 恥じらう様子も焦る様子もない。青年は、今向かい合わせで座っていると言うのに、あなたのことなど蚊の目ほども眼中にないとばかりに首を振るのである。これにはいささか瑠璃子のプライドに小さな瑕がついたのであるが、瑠璃子はこれも彼なりのユーモアだと思って笑顔を浮かべ堪えることにした。
 彼はふむ、と顎に手をやる。
「ただ、そうか。やはりアイドルというものは巫女のようなものであるんですねえ。巫女、ううん、シスターと言うか、聖職者と言いますか」
「巫女さん?」
「人が人に恋をするというのは、それこそ何千年も昔から続く人類の営みであり最大の謎であり誰もが避けては通れない命題でもありあらゆる芸術の捌け口でもあり」
 彼は一旦そこで言葉を止めた。
「いいえ、まあ難しいことはナシにして、あなたは誰かを好きになることは無いんですね」
 瑠璃子は一つ瞬きをした。
「なるほど、アイドルとは人を笑顔にする職業。人に希望を与える職業。笑顔を与えることは、人間のたった一つを犠牲にしなければならない。それほど笑いと言うものは、単純なようで……難しい。悲劇と喜劇は隣合わせとはよく言いますがなるほど、その通りのようですね。昔の流行歌にもありましたっけか、男の子一人も知りもしないのに、愛の唄歌うこの寂しさ……でしたっけね。まさにそれです。ああそうそう、アイドルとは偶像とも言いますね。偶像、ふうむ。確かに神に比せられるものです」
「あの、ちょっとちょっと。一人で勝手に喋らないでください」
 微かな憤りを感じ、瑠璃子は彼の独り言にも近いその言に身を乗り出して割って入る。
「これは私との会話っていうイベントのはずです。何一人で勝手に時間使ってるんですか」
 いや失敬、と相変わらず飄々とした態度で瑠璃子に言い、軽く手まであげてみせる。気さくな態度が過ぎている。瑠璃子の憤りも最もだが、彼女が感じている怒りはそのことに関するものではなかった。
「私だって、恋くらいします。人を好きになることだってあります」
 誰かを好きになることはない。そう言われたことが、瑠璃子の頭にきていた。
「では今、あなたは掟破りの恋愛をなさっているのですか?」
「違うけど」
 しかし瑠璃子はそこでそっぽを向かず、昔、と一つ呟いたまま横を向いた。
「昔の話。……好きな人がいたの」
「私はその話が聞きたい」
 余韻も生み出すことはなく間髪いれずに彼は言った。今度はあっちの方が身を乗り出したくらいだ。だめだめ、と手を振る瑠璃子。
「録音されてるし、監視カメラも入ってるし、あまりにプライベート過ぎるじゃんこんなの。無理です。駄目です」
「ああ、それらも必要ないので、最初に消してしまいました」
「え?」
「お気付きでは無かったですか」
 瑠璃子は天井を見た。四方に設置されているはずのカメラが、なるほど、忽然とばかりに消えていた。テーブルの上にあったはずの録音機器も消失していた。
 瑠璃子は、椅子から騒然として立ち上がった。

 彼は微笑一つも崩さない。その美しい顔に罅が入って、恐ろしい何かが現れる様子もない。ただじっと、瑠璃子を見つめて優しく笑うだけだ。その微笑に立ち上がった時は恐怖を感じこそすれ、何か悪いものがいるとは、最初に抱いた印象通り思えなかった。妖精。揶揄するようにそう思ったが、それは正しい見解かもしれなかった。人知を超えたものなのだ。千枚も買うなんて人間の仕業ではない、とは誰が最初に言っただろう。まさか本当にそうなのかもしれないなんて、誰が思うと言うのだろう?

「あなたは逃げることが出来ますよ」
 彼は顎で、瑠璃子が入ってきた扉を示す。
「ですが外に出た時、もう僕に会うことはないでしょう」
 扉を見、彼を見る。決めるのはあなただ。そう言わんばかりに彼は微笑を湛えたまま目を閉じている。
 瑠璃子は大人しく椅子に座った。
「つまらない話だよ? 文章にしたら多分一行で終わっちゃう」
「それでもそれはあなたのたった一つの恋の記憶でしょう」
 そう。と言うように、瑠璃子は口を閉じやや顎を引く。
 瑠璃子は誰かに自分の恋を語りたいと、本当はずっとずっと思っていたのだ。名も知らぬファンと握手するその瞬間、ステージで踊っているその瞬間、バラエティに出て笑っているその瞬間。アイドルとして暮らす日常のふとした刹那、幾百幾千の間に瑠璃子はその衝動と短い戦争を繰り広げてきたのである。
「私ね、本当はアイドルになんかなりたくなかったんだ」
 瑠璃子は静かに、白旗を揚げる。そしてその告白が始まる。とても静かな勝鬨だった。

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