スピカとオーレ、二人の間はうんと広がった。何十もの風がその間を渡っていく。
 どれだけ歩いてきただろう。振り返ればもうスピカの姿どころか気配すらも感じ取れない。それでも、オーレは目を閉じる慈悲深く、それでいて強くオーレを迎え入れる瞳の少年が、今でもどこかでじっと自分を見つめている。そう感じた。けれども――オーレはより一層強く目を閉じた。

 そして、その少年の目を書き換える。

 燃え盛る屋敷で、スピカがかつて宿していた瞳。――少年もまた屋敷を燃やし尽くす炎のように、自分を邪魔する全てを焼き尽くすかのような瞋恚に燃えた目をして、オーレを睨んでいた。
 彼の行く手を掴んだのは、この陽姫を巡る運命の為でもある。生き急ぎ、自分も死のうとするスピカを見殺しには出来ないと思った為もある。

 だが本当は、オーレ自身の欲求としては――地獄の番人もかくやという眼光を爛々と光らせていたスピカに、きっと――自分の罪を暴いて欲しかったのだろう。罰せられたかったのだろう。

 人知れず、オーレは呟く。

「君は――スピカ君は、僕と初めて会った日のような目で、いつまでも僕を磔にしておくといいよ。
 そうでないと……」

 言い果てた時、既にオーレの頬には、重く押さえつけた目蓋を押しのけて、何筋もの透明な道が出来上がっていた。
 震える手で、雫の通り道を触れる。指の腹が暖かくなったのか、それとも冷えたのかわからない。
 月明りに、それを照らしてみる。鈍く光るそれは、あの美しい少年の言葉を繰り返しているかのように思えた。

 ――仲間です。きょうだいです。
 ――どう思うかなんて、僕ら自身が決めることだ。

 そして、同じ運命を長年連れ添った、もはや相棒とも言っても差し支えない男の、およそその大きな体から出たとは思えない繊細な優しい言葉もまた繰り返される。

 ――そんなんは、関係ない。
 ――オーレさんはわしらを軽蔑しんかったし、見捨てもしなかった。おんなじことじゃあ。

 耳の奥で今でもはっきりと聞こえる彼らの言葉に、再び、目の奥から湧き出る熱い想い。

 罪深い自分は決して、未来永劫屈してはならない。赦してはならないし、赦されることも無い。それがオーレの架した罰だ。それなのに――もう屈服したも同然の涙を流してしまっているのは、一体どういうことだろう。
どうしてこんなにも、抗いたいと希ってしまうのだろう。

 弱い。弱すぎる。地に伏してさめざめと泣く自分を幻視した。その己にこれ以上無い程の侮蔑の眼差しを送った。憐みも慈悲も無い世界から送られる槍のような視線。それは断罪者の眼差しそのものだった。かつてのスピカが浮かべていた熱い熱い憤怒の眼差しではない。自分自身だからこそ、ただただ冷やかに、絶対零度の眼差しで自分を貶める。
 だがどうしてだろう。涙を流す自分は抵抗一つしないし、明らかに優位に立っているのは荒ぶる獅子の心を胸に秘め冷酷なまでに己を処罰する自分の方であるのに――その自分の方が、動けないでいた。それどころではなく、無声で慟哭しているに近かった。

 実際のところ――どちらの自分も、焦がれていたのだ。
 己に罰を架したのが己だったから、いけないのだ。

 こんな自分でも、まだ生きていたいと願ってしまった。
 血濡れた自分でも、彼女を愛したいと願ってしまった。
 誰よりも自分の近くにいてくれた彼女の傍で、泣いたり笑ったり時には怒ったり、そして――一生をかけて愛したいと、暖かなものを築いていきたいと、そう願った。

 そうなれば――戒めは、容易く解けてしまうじゃないか。

 許すなよ――そう言った舌の根も乾かない内に、あまりにもあっけなく、するすると。――だがしかし、その苦悩と葛藤に掛けられた年数を思うなら、それはようやく辿りついた、それでいて非常に身近にあった終焉だっただろう。
――オーレは決して強くはない。むしろ弱い大人だった。弱いからこそ逃げ続け、あの惨劇の浜で皆の罪を暴き、けれども自分の罪を露わにすることはなく、ただ哭いた。
 けれどもそれも、終わろうとしているのかもしれない。戒めを解くことが更なる弱さを、自分の醜さを、罪深さを露呈することになるとしても、それは決して間違いではないのかもしれない。それが一つの正解である可能性だって、非常に難しい問題ではあるものの、おそらくは存在しているのだ。
 随分と自分勝手だ、都合の良い解釈だ――嘲るつもりで笑ったが、それが深い意味を持ち得ない苦笑でしかないことに、オーレは浮かべた瞬間から気付いていた。一体どうしてそうなってしまったのだろう。なんという弱さだろうか。これは悲哀や呆れを通り越していっそ滑稽だ。そう思うけれども、今ではその弱さを迎合する自分がいた。そしてそれは決して諦めでも疲れでもなかった。

 ――こうなってしまったのも皆、あの少年を始めとした、仲間がいてくれたからこそ。
 あの少年と赤い姫の出逢いと想い出と、そして再会を見ていたからこそ。
 ああそうか――オーレは涙を乗せた指を舐め、そのまま新しく湧き出た涙を拭う。今更ながら、オーレにはやっと気付いたことがあった。

 スピカがオーレに似ているかはともかく、少なくともスピカとカーレンは――オーレにしかわからない程度に、自分達夫妻に似ているのだと。

「……雛」

 妻の愛称を呟く。そうだ。自分は臆病故に、雛衣に何も告げてはいない。――雛衣は、穏やかそうでいてああ見えて鋭いから、本当はもう、全部わかってしまっているのかもしれない。実際のところ、彼女はもう自分に愛想を尽かして久しいのかもしれない。
 だけれど、そうなっていてもいい。彼女が本当は自分を嫌っていても、恐れていたとしてもいい。ただひたすら彼女に逢いたくなった。けれども、どうにも不安が拭えない。それは自分の罪故でもあるし、玉梓の手が迫っているかもしれないということもある。
 ともかくも、夜が明けてくれないと話にならないか――肩を竦め、オーレは冴え渡る星空を仰いだ。気の所為か、和秦よりも見える星の数が多いように思えた。暖かな気候だから空気はそれだけ霞んでいるはずで、星々の煌めきはぐっと抑えられているはずなのに。だが、それでも綺麗だ。目を見張るものであることに違いはない。オーレの目に見えるものが真実なのだ。

 そう。たった一つの真実。

 雛衣にもこの南の空を見せたい、いいや、隣に並んで一緒に見たい。いつしかオーレはただただそんなことを思い続け、その想いを映すように星を見つめ続けていた。


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