三十年目の夜明け




 カーレンを包むスピカの腕は、ざぶんざぶんと続けざまに起こった水の音によって解かれた。その抱き締め方からは意外なほどあっけなかった。そのあっけなさは、カーレンには時が午前から午後に変わるのとそれほど大差なく感じられた。
 もっと長く、ぎゅうっとしてくれててもいいのに――表情には出さずそんないじらしい願いを抱いていることを、果たしてスピカは知るだろうか。
「なんだここ、海かあ?」
 見ると、与一が立って辺りを見回している。
「うーっ、しおっからいわあ」
 チルチルは服を濡らした海水を絞りながら犬のように下を出していた。ニコはまだ体を海に浸しながら呆然としている。
「あったかーい」
「どうやら、例の火の島みたいですね」
 浜辺にいる花火達を見つけて、与一達と夜でも暖かい南国の恩恵に触れる信乃と双助は海水を裂いて歩いていった。シュリさんも早く、と双助が呼んでいる。カーレンは後ろを振り向き、スピカも少し顔を傾けた。シュリはそこに立っていた。
 シュリは少しだけ得意げに笑ってみせ、無言で二人の傍を通り過ぎた。浜で太望がスピカとカーレンを呼んでいる。スピカとカーレンは、互いをまじまじと見つめ合った。
「スーちゃんぶさいく」
 涙で濡れ散らかって、目の下がこれ以上ないくらい腫れたスピカに、カーレンは笑う。
「む……失礼な。お前だって」
 と、スピカは泣き腫らした――赤い目だから余計にそう見える――下睫毛の辺りを指で押してやろうかと思ったが、カーレンの屈託のないその笑顔を見ていたら、そんなくだらない怒りは急に萎んで、心の片隅で桃色の光になって消えた。自分の頬がだんだん熱くなっていくのがわかる。
「ちょっとー、そこの二人、いつまでもつっ立ってないで早く戻りなさいよ」
 まだ浜辺に戻り切っていないシュリは、半分顔に笑みを浮かべながら、そして呆れながら二人を呼んだ。スピカは少しだけ笑うと、カーレンは返事するように笑顔を見せる。見ているだけで、幸せになれるような輝きだった。

「あ、シュリちゃん!」
「何よ、のろけなら聞かないわよ」

 別段二人が羨ましいわけではないが、見せつけてくれちゃって、とシュリは忌々しげに頭を掻いた。カーレンはわかっていないようで小動物のように首を傾げたが、何故か頭を振る。
「あのね、ご飯、ごめんなさい」
 そう言い頭を下げた。シュリもスピカも彼女の発言の意図が読めずに、目を白黒させてしまう。
「もしかして、華北で全然食べなかったこと言ってるの?」
 うんとカーレンは強く頷いた。
「出されたものを食べないなんて、作ってくれた人にも、ご飯にも、失礼だもの。
 それに冬だし、華北には困ってる人が大勢いるのに……」
 本当にごめんなさいと深く頭を下げるカーレンにシュリの方が戸惑ってしまう。全く予期していなかった謝罪には、どう対応していいかすぐに判断出来ない。
「ま、まあもういいわよ。あとで舜兄達がみんなと分けて食べたし」
 それなら良かった! と太陽のように笑う彼女が、本当にあの、沈んでいたカーレンだとはシュリにはちょっと思えなかった。だが、こちらが基本なのだ。本来の姿だ。その笑みが戻ってきて良かったと思うべきなのだろう。付き合いの浅いシュリにはどうにもまだぴんとこない。

「にしても、何でそんなにこだわるんだ? 食事のことで」
「もう、スーちゃんってば、ご飯のことそんなに軽く見てたらばちが当たるんだからね!」

 そんなに強く言い返されるとは思っていなかったのか、スピカは少し尻込みしたように言葉を詰まらせる。――スピカのことについても、一度刃を交えたことはあるがシュリはまだよく知らない。二人にどんなことがあったのかも、彼と彼女以外のことも――そう、双助のことも、これからわかっていけるのだろうか。

 そこでシュリは眉根を寄せた。

「何で双助君が出てくるのよ」
「あ、そうそう、双助さんもすごく料理が上手いって話聞いたんだった。今度食べ比べしてよ、スーちゃん」
「そんなに食べられないって。僕は小食なんだよ」
 なるべく小さく呟いたつもりがカーレンに拾われてしまい一瞬どきりとするが、どうもシュリの心配していたような話ではない。カーレン自身料理を得意としていて、彼女なりの料理人としての心構えや食べ物に対しての信仰といった話をしていたようだ。
 華北といた時の温度差にシュリは苦笑した。火の島と華北の、実際の温度差のようだった。





 宵闇の中でもほのかに白く見える砂浜で、与一達は一様に腰をぺたりと下ろして何やらため息をついたり肩をもんだりしている。
「華北まで? まあ、それはそれは」
「何で華北なのかはわかんないけどな」
「ばらばらになるよりは、よかったよ」
 信乃の言葉に誰もが頷く。
「でも――どうしてわたし、こんな疲れちゃったのかしら」
「ぼくもだよ」
 年少組は顔を見合わせた。いつもやたら元気なチルチルも与一も立ちあがらないで大人しく腰を落としているのは不思議だ、そうスピカはつくづく思う。
「さっきの話の所為もあるけど……お腹空いた」
 と呟いたのは隣のカーレンだ。不憫なので手を繋いでやる。そういえば自分も少し空腹だった、と他人事のように思い出す。
「ああ、どっかで休みてえな」
「それもそうですけど、お腹も空きましたねえ」
「多分ね」
 久々に、オーレの声を聞く。目線を上げて彼の表情を伺った。一瞬意外な感覚が彼に起こる。彼のあらゆる和んだ表情を削ぎ落としていた暗黒の仮面は――もうすっかり外れていた。いつものように柔和な表情が浮かんでいる。
 それに驚いているのはスピカだけではないようだ。李白も花火も太望も、きょとんとしてオーレを見ている。その様子に華北から戻ってきた六人は逆に違和感を覚えているようだ。
「華北・火の島間という莫大な距離を一気に超えてきたからだよ。カーレン君も華北に行ったんだろう? 気を失ったはずさ、それもわりと長い間」
 実際そうだったらしくカーレンはただ頷く。
「ま、陽姫の力も万能では無くて、どこかに負担がついてまわるってことだね。――でもこのまま与一君達を砂浜で干しておくわけにはいかないよねえ」
 虫が一杯出そうよねとシュリが苦々しく相槌を打った時、老婆の声が聞こえた。
「やーっと帰ってきたのかい」
 ハーツの声だ。
「おばあちゃん!」
 一際明るい声をあげたカーレンはスピカから離れ、祖母の元へ駆け寄っていく。
「まったく、心配掛ける子だよ本当に……」
 松明の赤い炎に照らされた、孫娘を見つめるハーツの顔は、確かに待ちわびたものを迎える母なる存在に似たやさしげなものだった。それはただ、一日姿を消したカーレンを待っていたと言うよりも――大切なものを見極め抱きしめたカーレンの心、魂を待っていたと言う方が幾分か相応しい。
「私の老いぼれた勘だけどね、まあ何人かは増えるんじゃないかなと思っていたからね」
 砂浜に突如出現したカーレンの祖母を華北の六人はまじまじ見ているが、ハーツは特に気にする様子もない。
「急いで食料やら寝具やらを買い込んでおいてよかったよ。……やれやれ、これが例の十二星座って奴かね」
 ハーツは目を細めた。孫が一気に増えた気分になったのだろう。
「おばあちゃん、ただいま」
 カーレンは穏やかに笑った。
 自分の立っている地が――自分を暗闇に落とした惨劇の場でも、カーレンはしっかり足をつけて、そして笑う。泣き疲れた目が、今に笑い疲れてしまう。
「はいはい……おかえり」
 ハーツは背を向けついておいでと松明を掲げた。
「おばーちゃん、私ごはん作るよっ、久しぶりに食べたいんでしょ?」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ」
「あ、おれにも作らせて下さいっ」
 カーレンの後ろから双助が連なり、続々と十二人はしばしの安らぎの家へと向かう。松明の炎はどこか家庭的で、やはり暖かだった。


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