茜色は、スピカの魂の咆哮の後、それに応えるかのように次第に濃くなっていった。だが、どれだけ濃さを増そうとも、カーレンの目の色のように純粋な赤にはならず、やがて闇に染まっていく。カーレンは、やはり戻ってこない。
 長椅子に座ってばかりいたため、疲労を感じてスピカは立ち上がる。

「スピカさん」

 それに触発されたように、李白の声が左方から聞こえた。見ると、小屋に入ろうか入るまいか躊躇している風な李白がいた。目が合うと、風に飛ばされそうなほど微かな笑みを浮かべた。

「夕食の準備が出来たので、ご一緒にと思ったのですけれど」
「あ……」

 そういえばとスピカはふと腹に手をやる。自分にだけ微かにわかる空腹の合図がしたので、少し照れくさくなった。行きますと気まずそうに返事する。
 外に出てしばらく進む。思ったよりも夕闇が迫っていた。西の方に僅かな黄道光らしきものが見える。東で星が瞬く時も近いのだろう。
 もう二日ほど経ちましたね、と前方の彼女は言った。
「戻ってきますでしょうか」
 え? と前を静々と行く高貴な女性に、スピカは思わずそんな間抜けな声を漏らしてしまう。さっきまで散々わめいていた、赤の姫のことだというのに。
「申し訳ございません。一番辛いのは、スピカさんですのに」
 彼女は少し横顔を見せた。夕闇の所為ではない陰りが確かに表情に落ちている。そこで、スピカは気付く。李白は己の胸元に手を置いて、少し深呼吸をしてまた歩を進めた。

(――そうだった。李白さんも、カーレンに救われたんだ)

 思い出すのは、紅蓮の炎に揺れる李白邸に飛び込んでいったカーレンだった。カーレンはもう別の世界に旅立ってしまった彼女の妹の遺骨を彼女に届けた。それはもう妹では無く、妹であったモノにしか過ぎなかったが、李白の涙を、悲しみを、あらゆる感情を縛っていた鎖を外した。そうやって――そんなことがあって、今李白はスピカの前を進んでいる。
 浜辺へ出てしばらくすると、花火と太望がこちらに近づいてきた。オーレが、二人よりも遠くに見えた。オーレは数回あった食事の時にも顔を見せなかったことを思い出す。まだ沈んだ面持ちでいるのだろうか。遠過ぎて表情までは伺えない。
「そう心配するな」
 花火の声が誰に向けられているのかわからず、しばらくスピカはきょとんとして彼を見ていた。お前に言ったんだと煙管を向けられる。
「そう簡単に死ぬものか」
 顔色も変えず彼はずばりという調子で言う。
「俺は一度殺された経験があるが、生き返ったぞ」
 そりゃ花火さんの場合じゃろう、とその言に困り果てた様子の太望が、しかし笑った。
「きっと大丈夫じゃから……飯にしよう」
 花火は確かにとんでもないことを超然と言ってのけたが、彼なりの心遣いだろう。スピカは心に暖かい光が灯ったように感じた。

 そう、よく、生きてこれた。生き抜いてこられたと、忌々しい過去をもう一度、頭の隅で思い出す。
 いつだったか、与一はこう言った。陽姫も戦っていると。陽姫がいると。十年前の炎の中で彼女がスピカを護った。そして生かして、この浜辺で、カーレンと出逢わせた。

 いや、それは陽姫の御蔭ではない。

 そんな道筋はいらない。偶然も必然も超えた何かがあった。強く、そう信じられる程の何かが――。

 スピカは海の方を向く。
 ここで、この浜辺で出逢った。

 ひとつ、深呼吸する。

「スピカさん?」
 李白の声がする。もう行こうと、スピカは体の向きを変える。
 皆が祈る。皆が想う。ただ一つのことを願っている。今は、それだけでよかった。
 ニ、三歩進んだ、その時だった。


(スーちゃん)


 動悸がした。スピカは立ち止る。

 ――頭の片隅に、あの優しい自分を呼ぶ声が聞こえた。

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