「こんな」
女は右の手で目を覆い、それからするすると手を下していく。
「こんな母親に、誰が会いたいと思うものか」
顔を顰め、両手で空気を握りつぶす。
「――許されぬ。決して許されぬ。私を、
――妾を許しては、いけぬ」
涙を堪えるように、再び目を閉じた。切なさは辛さとなり、痛さとなり、花依の心をかき鳴らす。それは警鐘ではない。ただ心を揺さぶる。
「世界が悪いのではない。里見が、辰川が、山下が神余が悪いわけでもない。
悪いのは、何もしなかった、妾じゃ」
目が開かれる。彼女の赤く燃える瞳から、涙が零れ落ちた。
「愛しておった。
愛しておる。
昔も、今も、これからも。
愛しておるからこそ――」
花依にではなく、誰に告げるでもなく、女は言う。花依は言葉の真意は、確かに掴めなかった。しかし、言葉一つ一つに影を落とす悲しみと悔いは伝わっていた。
「今更こんなこと、虫がいいのは、わかっている。
だから妾は、――許されない」
もう一度、自嘲気味に、そして絶望したように、彼女は嗤った。
その時だ。
女の向こうの扉が叩き壊され、目にも止まらぬ速さで何かが女をねじ伏せ、霧散する。
飛び散った残滓で、その正体はどうやら水であるとわかる。
「――来たか」
もとから濡れているように見えた髪は本当に濡れたことでますます重みを増していた。女は立ち上がる。そこにはもう、悲愴も辛さも痛みも涙もなかった。ただ恐怖ばかりが花依に向かってくる。
「花依ッ!」
懐かしい、声がした。花依は女の姿越しに見えてきた人物を目に映す。
ほんの短い間、離れていただけだというのに、長い間一緒に生きてきた為か、あるべき形に今、やっと戻ったという思いが花依を急かす。
「シュリ!」
名を呼ぶと同時に、袈裟の女はシュリの方を向いた。シュリ以外にも頼もしく、そして愛しい人々が現れ、花依の恐怖をたちまち削ぎ落していく。
「双助さん――信乃さま!」
信乃は、もう大丈夫という風に笑う。
「お前が、兵達を操っている妙椿とかいう尼だな」
そしてそんな笑顔とは裏腹な冷たい声を女――妙椿に投げかける。妙椿はどんな顔をしているか、花依には見えない。しかし、あの赤い目で妖しく嗤っているんだろうと見当がついた。信乃はそれでもひるんでいない。その姿が、どんなに花依に心強く見えることか。
「姫を返せ!」
「返すものか」
すべてをねじ伏せるような冷たい声で妙椿は答える。両腕をゆっくり上げていく。
「里見の姫は殺す。里見は亡ぼす、世界を、亡ぼす!」
ゆらり、と周りの影や闇が人の形をとって浮き上がった。ぴんと何かが弾ける音、弓の弦を鳴らしたような音がした。
「ゆけ!」
闇の人形は信乃達に襲いかかる。三人は小屋内に走り込み、転がる玉のように狭い空間を駆ける。信乃は村雨丸で襲いかかる人形を斬り、双助も二本の刀を巧みに用い決して怯まない。シュリの行く手を阻む人形には、どこからともなく勢いよく水が湧いて抑え込まれる。
「花依! 大丈夫だった?」
「シュリ!」
とにかく腕を伸ばす。
「来てくれるって、信じてた!」
花依は自分の故郷の匂いのする黒服の少女にひしと身を寄せた。シュリは手首足首を縛る縄を慣れた手つきで切り、脱出を図る。
しかしその僅かな隙に黒い敵は増殖し、シュリが操っているらしい水の勢いも弱まっていく。が、今度は水とは真逆の性質である炎がどこからか現れ、黒い操り人形を更に暗黒に焦がしていく。
「花依さまっ」
カーレンの声だった。全身赤い刺青で赤い少女も、来てくれた。そして隣から青い髪の、乙女のような男性・スピカと、何か呪術が施された札を握りしめているオーレが同じように戦闘に加わる。