淡い光が視界を奪い、スピカは自分が元の場所に戻ってきたことを知る。光は霧となり、次第に晴れていく。
あの空間に飛ばされる前と同じ神社にいる。以前と同じく古びている。しかし、狛犬も鳥居も植物も全てが霞んで朽ちてしまうような雰囲気はもうない。鳥が鳴いている。飛び立つ音も聞こえる。空は橙色で、方角がわからないので今が朝か夕方か判然としない。
カーレン達も気がついたようで、辺りを見回していた。スピカも頭を動かしてみる。
オーレがいた。何もせずに棒のように立っている。微笑していない。ただ困ったような顔をしていた。スピカはオーレと同じものを見ようと目を動かす。
雛衣がいた。
「王礼」
夫を呼ぶ。何ら変わりのない声だ。ふんわり内に巻かれた髪もふっくらした輪郭も少し幼い顔立ちも、最後に会った日から何も変わらない。危害を加えられた様子もなく健康そうだった。
「雛衣――」
夫は妻を呼ぶ。そろりそろりと近付いていく。
「よかった無事だったんですねえ」
「ああ、よかった――ってわけにゃ、いきそうもねえか」
双助に同調した与一が発言を取りやめたのは、オーレが彼女に触れようとした手をためらいがちにひっこめたためだった。
雛衣は怪訝そうに首を傾げる。オーレは彼女と目を合わせようとせず、右斜め下を向いてただ黙っていた。
「どうしたの? 王礼」
ただ夫は、すまないとだけ返した。
「――本当に、すまない。十年間、僕は何度も何度も謝ってきたけれど……足りなくて」
雛衣は首を傾げたままだった。やがて何かに気付いたように小さく頷きながら顔を正し、夫を見る。スピカからわずかに見える雛衣はいつもと変わらない微笑を浮かべていた。そしてスピカはただ漠然と、雛衣はもう何の話をしているのかわかっているのではないかと思った。
玉梓はともかく、オーレの方はまだ、全て解決していないのだ。
「許してくれなくてもいい。いや、許さなくていいんだ。そうするのが当然だから。僕は玉梓の言う通り非道な奴さ。凶悪そのものだ」
「ぜんぶ」
雛衣が呟く。
「うっすらだけど、――あなた達が今まで何をしてたか見ていたの。王礼の、ことも」
そして俯いた。
「なら話は早い。――こんな僕なんか、今すぐ、ここで……」
その声は次第に潤んでいった。ここで。そう、ここで。言葉を重ねながらオーレは拳を固める。手に爪の跡どころか、流血の通り道が出来るほど強く、スピカからでもわかるくらいに。
「王礼」
手の動きがはたと止まる。雛衣がオーレに触れていた。涙の伝う頬に触れていた。微笑の度合いを強めていた。
「もう、そんな昔のこと。いつまで悩んでいるの」
彼女は何てこともなさそうに微笑している。
オーレは驚いたように顔を上げる。実際、驚いているのだろう。
「生きていけるなら、あなたと、生きていけるのなら。
そんなこと……私の中ではつまらないことだったのよ」
そんなことって、とオーレは声を荒げる。雛衣は頷き、彼を否定するように柔らかに頭を振る。だがオーレの言葉は止まらない。
「つまらないって……僕は君を殺そうとしたんだ! 君だけじゃない、礼蓮まで」
オーレは罪を隠そうとせず、妻の前で並べて曝した。早く終わりにして欲しいと願う囚人のようだと、スピカは思う。殺すなら早く殺せと死刑を待つ罪人はぴったりとオーレと重なる。
それは本心だろうかと疑問が湧いた時、スピカの隣にいたカーレンがオーレさん、と呼ぶ。
「雛衣さんの話を……聞いてあげて」
振り向いたオーレの顔にはやはり涙の跡が光って見えていた。
「――カーレン君」
「そうよオーレさん。自分の言いたいことだけ言って、相手の話を聞かないなんて、そもそも会話が成り立ってないんじゃないかしら?」
シュリはそう賛同した。
「そうですよ」
「オーレさん」
「そうそう」
誰もが雛衣とオーレの背を押す。オーレは陽姫を見た。何かをずっと考えているように難しい顔をしていた彼女は微笑する。
オーレは再び妻と向かい合う。今こそ沈黙していた雛衣が本当の言葉を口にする時だった。
少し困ったように微笑し、言葉を選んでいるのか、再び俯く。しかしすぐ顔を上げた。
「うまく言えないかも知れないけど、笑わないでね」
こんなに大勢の前でなんて、緊張しちゃうわ。はにかむ彼女はしかし、笑みの余韻をそっとしまい、凛として夫を見つめる。
「あなたが笑っている。あなたが生きている。
それが嘘でもいい。気休めだって構わないわ」
雛衣の優しい茶色の目に、オーレの姿が映し出される。
「私にはただそれだけでよくて、この先も……生きていけると思ってこれた。
今も変わらないわ。変わる気なんてしない」
声も優しげだった。しかし調子はしっかりとしていて強い。
「あなたの呪いも、玉梓の呪いも解けて、やっと始まるのよ。
これからが、新しい日々が」
夜が明ければ、そう、朝が来る。
「私達が離れなくちゃいけない理由が、一体、どこにあるの?
離れよう離れようって言っている、くせに」
なら、そう雛衣は微笑み、すっと夫の頬を撫でる。
「あなたの涙はどうして、流れているの?」
そこで初めてオーレは、自分の流れる涙に気付き驚いたように一歩、後ろに身を引く。声を殺し、オーレは泣く。深く深く俯いた。
「――離れたくない」
声を殺しても、生まれてくる言葉は、本当の願いだ。
「好きだ。小さい頃からずっと隣にいた君が、君のことが。
誰が、どんなことを言ったって。
死にたくない、まだ生きていたい。
まだ君と生きていたい」
死を選ぶことは簡単だ、死ぬことも簡単だ。生きることは難しい。綺麗事ばかりではないことはオーレには十分わかっている。
だけども生を選ぶ。愛する人のいる世界を選ぶ。
それが一番の幸せであるということに、オーレは気付いていた。だけど隠してしまった。だから、無数の涙が流れた。
「それでいいのよ。重たすぎるものは私が半分持つから。ね」
そう言って雛衣はオーレの手を取る。
「だから、――だから顔をあげて。
ねえ、オーレ」
彼は顔をすっとあげた。何も言う暇も与えず、彼女を、雛衣を抱きしめた。強く強く夫に抱きしめられる雛衣の細くなった目尻にも、確かに光るものが浮かんでいた。
――雛衣が夫を「オーレ」と呼んだのは、この時が初めてだったことを、スピカ達は知らない。