かなしみはわたしのもとへ



 オーレは笑っていた。平生通りの笑いだった。スピカに見せた泣き顔も血の通っていないような冷たい顔も、全て呪いがかかっていたからに思えて、張り詰めたものが一気に元に戻っていくのを感じた。どっと疲れたような気分。オーレの方は、きっとすっきりしていることだろう。
「まったく」
 何かの想いがスピカの口からため息と共に零れる。
「心配したんですからね」
 いやあごめんねと、彼の言葉の調子はスピカの知っている、誰もが知っているいかにもオーレらしいものだった。
 太望がふらりとスピカの横を通ると、倒れるようにオーレに寄り掛かる。大丈夫かと訊こうとした瞬間に聞こえたのは涙に彩られた声だった。
「よかった」
 太望は大男だ。オーレよりもずっと大きい。まるで熊のような男がオーレの肩に顔を埋めていた。
「よかったのう」
 そしてその容姿にそぐわず繊細で、情に脆い。気付けば涙を流していることも多いのだ。太望の今は涙の今だった。だけどその涙は悲しみではない。
「でも太望君、まだ全部終わっちゃいないし」
 オーレの微笑は弱まった。
「呪いを解いたからって――」
 おじさまっというチルチルの元気な声でその秘密の独白は消え失せた。
「よかったわ、わたし、おじさまがどこかへ行っちゃうかと思ったもの」
 チルチルはうんと笑い、そのお蔭で僅かにほつれたオーレの微笑は元に戻った。続々と仲間達が集う。誰も彼を嫌うことなく、睨むことなく、憎むこともなく、からかうように小突いたり笑いかけたり言葉を交わす。もし仮に、嫌悪が心の深層に流れていたとしても、それを見据えながらも、何かが彼等の絆を堅いものにする。仲間や兄弟という意識がかすがいとなって、強くしていく。
 陽姫は彼等に少し笑いかけた。それから、やるべきことがあると言うようにすたすたとまっすぐに通り過ぎていく。十二人の子供の喧噪は止んだ。

 光の母が進む先には、闇の女が横たわっている。

 玉梓は未だ立ち上がれずにいた。陽姫が傍らに立つ。はあ、と忌々しげに玉梓は重い息をついた。
「何だ。何がしたくてそんな所に立っている」
 言葉は呪詛のように響いた。この紫の世界にひどく似つかわしい。小賢しい、忌々しい奴め、と玉梓は歯を食いしばる。
「殺すなら早く殺してしまうがいいだろう、何をもたもたしているのじゃ」
 陽姫は何も言わなかった。玉梓だけが口をきく。
「――そんな目で」
 玉梓はそう言った。目を隠しいる彼女はそう言った。
「そんな目で妾を見るな」
 ゆっくり玉梓は立ち上がる。紫色――少し桃色に近い光が走り、彼女の体の線を明確にした。ほのかに、彼女の存在は紫の世界の中で縁取られる。
「そんな、全てを許そうとする目で、妾を見るな。本当は、妾にかかればお前など――」
 ぐらり、と彼女の体は揺れる。倒れる前に何とか持ちこたえ再び直立し、陽姫を睨む。息は苦しく彼女に出入りする。
「玉梓……」
 陽姫はようやく口を開いた。
「もう大分、弱っているんでしょう?」
 一瞬の間があった。何を馬鹿なことをと玉梓は嗤う。しかし陽姫に指摘されるまでもなくスピカ達にも、先程のオーレの力をまともに喰らった玉梓の弱った様子は明らかだった。
「まず、私とあなたが最初に出逢った時からして、本当はその時の衝撃で、大分あなたは痛手を負っている。勿論、私も」
「ふざけるな」
「なのに――あなたは様々な姿に変化してきたわ。オーレの父母を殺し、成り代わり人々を苦しめた化け猫。花依を攫った鷹。花火の妹の花依を殺した侍。カーレンを陥れたマーラという女。スピカの肉親を殺し、多くの者を誑かした玉響という男。太望を、チルチルを騙した女、妖術を使う尼。
 それだけじゃない。ニコの父達を狂わせた力。今も続いている戦を操る力――。
 あなたは、一人の巫女が秘めるにも駆使するにも莫大過ぎる力を、ありとあらゆる形で使ってきた」
 玉梓は苦しい息遣いをしながらも、意外な程静かに、何の動揺も、そう、眉ひとつ動かすことをせず陽姫の言葉を聞いていた。
「あなたは変化してきた。あなたは戦ってきた。
 あなたは憎み続け、呪いをかけ続けていた。――三十年間もよ」
 陽姫の口調は穏やかで、優しい心地よさを周囲に与えた。玉梓はぎりと一層強く歯を食いしばった。
「――ああ、そうだ。それほど弱った妾を殺すのだ。簡単なことだろう。早くすればいい」

 陽姫は首を振る。

「殺すんじゃないわ。助ける。
 私はそう言ったのよ。三十年前に」

 三十年前を知るのは、陽姫と玉梓以外にいない。陽姫は、自分が強い光にのまれながらも確かに助けると約束した――そう言う。
「助けるだと? 冗談をぬかすでない」
「冗談じゃない。私は本気よ。

 ――誰も、誰もあなたを殺すことなんか望んでいないの」

 緩く頭を振る陽姫。浮かぶ表情は慈悲に似た何かだ。
「あなたは確かに里見を、世界を憎んだでしょう。約束を破って、愛する者達と自らの命を奪ったこの国に、私の一族に報復し続けたでしょう。

 でも本当の目的は、そうじゃない」

 違う? そう訊かれた玉梓の眉は僅かに、悩ましげに動いた。
「別の目的のため、あなたは三十年も怨霊となって生き続けてきた。――そうでしょう?」
 陽姫の言葉に、玉梓は一度口を紡ぐ。だがすぐに切り返す。
「そうだとしても、ならばなぜここまで追い詰めた。
 妾を殺すためだとしか、選択の余地はあるまい」
「望んでないわ」
 同じことを陽姫は繰り返す。
「私もそうだけれど――

 あなたの子供達は、そんなこと、望んでいない」

 その言葉に共鳴するように、突如十二人の珠は光り輝き出す。紫の空に白い粒が浮かび、夜の天空をそのまま映したかのような星空に変わった。
「――珠が」
 珠は意志を持ったようにシュリの手から離れ、宙を舞う。取り戻そうと手を伸ばすが、すぐに引っ込めた。シュリがそうであるように他の十一人も同様だった。
 カーレンが自らの赤い珠と向かい合う。赤い珠も、蟹座の紋章をカーレンの方に向けていた。向き合ったまましばらく黙っていたカーレンはようやく口を開く。
「あなた――プレセペ?」
 そう呟くカーレンの脳裏には、夢で見た幼い巫女がおぼろげに浮かんでいた。
 珠は何も言わない。ただ他の珠と共に動きだす。玉梓のもとへ飛翔した。そこへ行くまでに、珠は形を無くし光となる。

 赤い光、白い光、青い光、黒い光、星屑のような光となって――玉梓を囲む。

 そして――玉梓の耳にも陽姫の耳にもカーレンの耳にも、誰の耳にも確かに聞こえてくるものがあった。
 母上、お母様と呼ぶ声だ。水面を走る波紋のように声は重なる。カーレンは最後に聞こえた声を、夢の中で確かに聞いていた。プレセペの声に違いなかった。
「あ……あ……」
 玉梓の目隠しが、滲んでいく。

「あああッ!」

 そして、泣き崩れる。

「聞こえる?
 ――あなたの子供達は、あなたが誰かを傷つけることも、あなたが苦しむことも、あなたが泣くことも、あなたが自分を虐げることも、そんなこと、ちっとも、望んでなんかないわ!」

 強く陽姫は言い放つ。
 そして、しばしの後、微笑する。陽姫の体は黄色い光で縁取られていく。数々の光に包まれた玉梓に彼女近寄り、優しく抱きしめた。
 紫の光と黄の光が混じり合う。濃くはならない。色も何も無い、ただ光としての光が強く空間内を走った。スピカもカーレンも、皆 目を閉じる。光は強く、目蓋の裏までも貫くようだった。
 目を、十二人は開いていく。そこにもう、紫の空間は無かった。夜明けと同じような、神々しい桃色の空が広がっている。
 陽姫は座っていた。玉梓を膝枕にのせていた。玉梓が微かに口を動かす頃には、皆周りに立っていた。まるで、祭祀を行う神官達のように。

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