「オーレさんっ!」
スピカはようやく、紫に塗り固められた空間で大声を上げる。
「あんたはっ、まだ、雛衣さんに何も言ってないんだ!」
スピカは彼の元に走る。何かを少しでも吐き出しているならば、オーレは微笑の裏で涙を流すこともなかった。火の島で太望を殴り自分を失うこともなかった。スピカに懇願するように言葉を漏らすこともなかった。
スピカはオーレの右手首を、掴む。
玉響を逃がしてしまったあの日。自分に迫るもの全てを傷つけて、皆殺しにしたあの日。オーレが自分にそうしたように。運命に引きずり込んだように。
それはあまりにも出来過ぎた偶然で、奇跡のようだった。
「戻ってくるんです」
オーレはそれでも振り向かない。
「雛衣さんが、礼蓮が、みんなが待っているから!」
「――ふん、煩い奴め」
玉梓は吐き捨てる。
「さあいい加減何もかも全て捨て、妾に身を任せてしまえ!」
そう、玉梓は嗤いながらオーレを見つめた。
その次の瞬間、玉梓の顔が歪む。
「あうっ」
見ると、オーレの頬に寄せられていた玉梓の右手首を――オーレが強く、掴んでいる。とても玉梓に全てを任せると思えない。
「聞いただろ」
返事を求め、彼はますます力を強めた。玉梓の顔の歪みも増す。
「僕を呼ぶ声を」
微かに笑った気がした。
「玉梓、君は、はめられたんだよ」
「――何だと」
「すべては僕の計画通りだよ。さて、もう逃げられないね」
涼しい顔をしているが、力は緩める様子はない。
そして驚いているのは、何も玉梓だけではない。顔を歪める彼女とは違い、スピカは目を丸くするばかりだ。
「オーレ、さん……?」
「あの時と、まるで逆だね」
だらだら流した涙を拭う暇もないや、と言うように笑う。はめた? あの玉梓を? 瞬きの度に疑問が浮かび飛んでいく。スピカには何が何だかわからない。ただ呆然としながらもそれでも右手首は掴んだままだ。
「どうだった? 僕の一世一代の大舞台。まあ、顔は君には劣るから、僕なんか精々三枚目役者だけどさ」
「舞台って、え? 嘘泣きだったんですか?」
「おや、そこに注目するの? 嘘だなんて心外だ。あれは僕の貯めていた涙だよ。本物の涙。
スピカ君ならその程度はわかるでしょ」
そりゃわかってましたけど、と言いそうになり言葉を飲み込む。先程の雰囲気と違い過ぎる。あまりにも滑稽だ。それなのに彼の力は弱まるところを知らず、むしろ玉梓は苦悶の表情を強めていた。
「小癪な……真似をッ」
玉梓はぎりりと歯がみする。しかしオーレは怯まず、鼻歌でも歌いだしそうですらある。
「こんな僕でも――罪に塗れて狡猾な僕でも」
玉梓の右手首に強く強く、オーレの指から溢れる力が痕をつけている。玉梓の呻きが、痕の生まれる音のように聞こえた。その中で、オーレは確かに言う。夢のようにではなく、現実に生きる人の声で形にする。
「――まだ、みんなのもとに、雛衣達のもとに、いたいんだよ」
オーレの微笑は、続いている。
「こんなどうしようもない僕をさ、兄と、友と、仲間と呼んでくれる。
それが嘘でもいい。気休めと言われても構わない」
玉梓は脂汗を浮かべ呻き声を殺していた。目隠しをしているため表情は読めないが、あの恐ろしい嗤いは消えていた。
「僕はいい加減、僕の呪いを解くよ」
オーレの右手が上がっていったのでスピカは手を離す。そのまま後ろに下がった。そう、オーレは呪術師なのだ。
――いつだったか、彼は確かこう言っていた。
たった一人にだけ、呪いをかけていると。
それは、己のことだったのか。
「雛衣とのことは、それからだ!」
ぱちんとオーレは右手の指を鳴らした。
紫に爛れる空間でその音はひどく単純に聞こえた。背景の紫が、微かに揺れる。オーレの力強い左手に何か変化が起きていた。
光――黄色い光を放っている。
「や、やめろ!」
玉梓の弱気な叫びが一瞬こだました。キンという高い音に打ち消されたのだ。
光が、膨れ上がる。
空間は轟音に揺れた。光が爆発するかのように四方で弾け、音が響いたのだ。玉梓はオーレの目の前から消え――遥か遠くに飛ばされていく。オーレの目の前にはもう誰もいなくなっていた。
「オーレ……さん?」
スピカは息をひそめて彼を呼ぶ。
「オーレさん!」
太望がスピカの隣にやってくる。
ゆっくり振り向いた彼の顔に浮かぶのは、いつも通りの――いや、いつもよりもずっと、穏やかな微笑であった。