オーレは二人を眺めて、ほとんど損傷のない寝殿に行こうとスピカ達を促す。


「でも――」
「傷口に、薬を塗って包帯を巻いたら僕らの出来る事って何?」
 スピカは、きょとんとする。
「早く治れって祈るだけさ」
 さ、二人きりにしてあげようとオーレは進んだ。


 その途中、オーレは自分の妻のことを想った。
 もう十年になるのかと空を仰ぐ。白い空だった。
 雛衣はオーレに何も示さない。オーレが十年前にした仕打ちに、未遂となった仕打ちに何も言わない。ただ微笑みを続けてきた。そして子供が生まれ、十年経った。そのことがオーレを縛っている。
 優しさに包まれるように、実際は重い鎖に縛られている。オーレは花火と違った。まったく別のものがオーレを襲っていた。
 逃げられない想いだ。払いきれない恐れだ。
 いつも背後から、オーレを襲ってくる。

「オーレさん。何してんだ」

 与一の明るめの声にオーレの暗澹たる考えが身を潜め、虚無的な笑いをオーレに浮かばせた。












 花火の胸で涙を流しつくした李白はそのまま眠ってしまった。仕方がないので寝殿に運んだ。里見からシリウスや城の使いがようやくやってきて一部始終を話し、杜甫を丁寧に葬り、嵐が去った後に訪れる穏やかな時を送るうちに空に月が昇った。

 李白は深い眠りの底から浮かぶことはなく、花火の傍で呼吸している。花火は近くの几帳をどけ、御簾を上げて月を見ていた。琥珀色の月が、花火の視界の主役であったが、花火は煙管の灰を落とすと、懐から自分の珠を取り出した。

 無色透明、蠍をかたどった紋章の裏に忠の字が見えている。その珠は、花依を火の海に葬った後に出現した。双助という信乃の友人と、些細な――いや大きないさかいが起こり、斬り合った時だ。
 花火の左肩の瘤が斬られ、珠が飛び出す。つい昨日のことのように花火は思った。

 花火はじっと忠の一文字を見つめた。練馬が仕えた主人に忠実でいるのか、身を寄せている里見に忠実でいるのか、それとも自分が立つ運命に忠実でいるのか、生きたいという欲に忠実でいるのか――その一文字から花火は様々な自分を見つけることが出来た。

 戦で全てを失って、さらに妹を失い、その苛立ちや悲しみから生きる欲望を生成したのだろうと花火はそんなことを思いつく。苛立ちは仇討ちという行動に姿を変え、花火を支配した。
 苛立ちが収まり里見に身を寄せた。
 運命を、花火は冷めた目で見つめた。

 そして最後に、生きたいと願った。

 秋の風が恥ずかしそうに花火の身に触れて流れた。少し振り返ると、李白が眠りからこちらへ浮かび上がってきた。
 ゆるやかに流れる現実のやわらかな時間に、力をはらずに彼女は確かにそこにいた。

「大丈夫ですか李白様」
 花火が距離を置くように言ったので、李白ははにかんで
「李白でいいですわ。先ほどもそう呼んでいただきましたもの」
と言う。そういえば、と花火は少し頬を花のように赤らめる。李白も、頬に桃色の花びらをちらせたように花火には見えた。

「この家と金山は、近江にいる叔父にあずかってもらうことにしますわ」
「そうするのがいいなら」
 花火はまた煙管で煙を出す。


 二人は見つめ合うこともしなかったし、お互いの髪や肌に触れることも、話すこともその場ではしなかった。二人には少しの間、互いに涙を流した時だけの染み入るような暖かさが、いまだに体に宿っていた。
 その暖かさは些細でも、二人にとってはなくてはならないほどの莫大な意味があった。星天も蒼天も世界も運命も包み込むほどの力のかたまりが緩やかに、穏やかに二人の間にあった。


 二人はいつかのように、同じ月を見ていた。


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