同じ月



 李白は思い出す。

 数か月前、まだ夏が息づいていた雨の降る夜のことだった。
 李白は御簾を重く下ろし、しかし大殿油を灯し周りを明るくして、御簾越しにいる男に背を向けていた。

 京の都の、事実上最高権力者である左大臣と李白が、永遠に閉じきっているような御簾越しに会話を始めようとする。

「――またあのお話なのでしょう。お断りさせていただきます」
「私がこうして雨露に濡れて訪ねているのに、非情な奴だ」
 李白の父が亡くなってから、久しく男の声がしなくなったこの寝殿に、左大臣が来た時だけ、蛇のように男声がうごめく。

「――何度申し上げればよろしいのですか。お断りしますわ」

 御簾の向こうにいる男は、他の貴族にひけをとらない程器量が良かった。しかし、最高権力者であるために、京の政治機関である朝廷を恣にし、自分の、あるいは自分に群がる悪臣・愚臣共の領民達を苦しめている。京は近いうちに腐って崩壊していくのだろう。風がさっと吹き、火を揺らす。李白の影が油のように揺れる。


「――何度でも言わせてもらう。西園寺の金山の鉱脈から出てきた、世にも稀な真珠を譲れ」
「――いいえ。いくら左大臣殿であろうと、あの珠は両親の形見――いわば家宝でございます」
 左大臣と同じく、何度も口にしてきた言葉だった。

「金山の一つや二つはお譲りできます。しかし、どうぞあれだけは」

 父母亡き今、新たな西園寺当主となった李白が家宝を守るのは当然の義務である。しかし、相手は最高の権力を持つ得体の知れない者だ。京で最も力のある命令・帝の勅令をも操れるかもしれないのだ。
 李白は、激高したい気持ちをいつも抑えた。金山の一つや二つでなく、根こそぎ取られてしまえば先祖たちに申し訳ない。しかし、あの白い珠だけは、守り通したい。李白はどんなに恐ろしくてもその決意だけは揺らがなかった。生まれる前から守るべきものと決まっている――そのような強さが李白の内に存在していた。気持ちが目に見えない粒子となり、李白の体をぐるぐる廻る。
 李白は頭を下げるしか道はなかった。そこには、いつか薄っぺらい御簾をいとも簡単に突き破り、自分の清さを奪われるかもしれないという恐れも、もちろんあった。
 いつもならこれくらいで左大臣は引き上げていく。そのたび李白はため息をつく。眠れずに朝を迎えるほど緊張する時もあった。
 しかしその日は違った。
「ならば――」


 杜甫を嫁に出せ、との要求に、李白は生まれてから一番の戦慄を覚えた。


「そ、それは――」


 杜甫はまだ裳着を終えたばかりの幼い子供である。貴族社会のいろはも知らない、言葉遣いも直さずに、渡殿を元気に走る。顔つきは大変幼く、髪は額を隠すように伸ばし、李白に梳かされるのをいつも嫌がっているような子供だ。しかしその髪はをかしの御髪と表現されてもおかしくない。笑顔は果実の雫のように爽やかで美しい。成長するさまが知りたいくらいに美しい――嫁に貰いたいという要求はもっともである。しかしいくら美しくても李白にとってはまだ子供で、大切な妹なのだ。



「あの子はまだ――――」
「私がこの御簾をくぐってお前を犯して、真珠も金山も何もかも奪ってもよいのだぞ」



 李白が、この気味の悪い暴力を受け入れることは、ついに出来なかった。
 杜甫は承諾した。杜甫自身、自分がどうなるか解っているのか、解っていないのか、彼女は話さなかったし、李白も、訊けなかった。
 ただ、杜甫はこう言った。


「お姉様やお家を守るためですもの!」


 杜甫の言葉と無邪気な笑顔が、李白の頭の重い所でゆらゆら揺れた。

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