その日は屋敷で一泊することとなった。チルチルとネフェレを除く召使い達はみなアルゴ村や他の村、もしくは何処かの地方から税や借金の代わりや、誘拐の被害にあった人々であったため、この屋敷に戻ることはないだろうという見解がプリクソスにはあった。問題は、メーテルリンクから他家に流れ、苦しみを強いられている人々をどう救済するかであり、周囲の町や村が一致団結して解決していかねばなるまい。

 ニコは寝付けずに外に出た。どうも欧風の寝台に慣れていないためらしい。疲れてはいる。少し風に当たれば暖かさを求めてどうにか眠りにつけるだろう。
 庭へ出る通路を見つけ、庭に出た。花々は皆、神にひれ伏すように地に眠っている。朝になれば以前と変わらないように起き上がり、咲くだろうと冗談でニコは思う。それが悲しく空しい想いであることをすぐに自覚し、冷たい風に一層ニコは花々を憐れんだ。
「ニコくん? ニコくんでしょ?」
 左側からチルチルの声がし、驚いてそちらに体を向けた。チルチルは木に登って、大きな枝に腰かけているようだ。
「チルチルちゃん? こんな遅くに何やってるの?」
「ニコくんこそ」
 こっちにおいでよ、とチルチルはニコの為に空間を作ったので、ニコはやや遠慮しつつも木を登った。
 二人の熱が、冷たさの中で淡く光る。二人の息遣いが、静かさの中で唯一の音となる。ニコは隣のチルチルの顔を密かにうかがう。月明かりと星明かりだけの暗さの中で、それでもはっきり解ったのは、彼女が昼間ここで起きたことを彼女の中で繰り返し、少しずつ我慢した悲しみに身を沈めようとしていることだった。涙を自分で拭った少女をそっとしておきたいとニコは思う。しかしチルチルが自分を呼んだ意味を、少し考えた。
 ニコは、話し始めた。
「僕、小さい頃左手が不自由だったんだ」
と、左手をチルチルに見せる。
「ええと――父さんと母さんが亡くなったのは、ほとんど同じ時だった」
 ニコは左手を見ながらぼやけたその記憶の映像を思い起こしてみる。それは部分部分で切り取られたもので更に不鮮明だ。

 気のふれた父。ニコを守る母。母は父に殺され、父は伯父に殺された。
 首の無い父母。天に昇る父母。泣く自分。

 血に濡れた過去だ。しかしそれがニコの終わりではなく、始まりであったことをニコは知っている。なんて酷い始まりなのだろう。
「死んだ時に、この左手は開いて、そして」
「その中に珠があったんでしょ?」
 ニコは目を丸くして隣の少女の顔を見た。顔から悲しみは消えていた。チルチルも驚いた顔をしていた。
「なんで、そのことを」
「きいて! あのね、ネフェレとおじーちゃんが言ってたの。
 わたしの右手もニコくんの左手みたいにずっと開かなかったんだって。
 でも、わたしがこの家から出て言った途端に開いたの。
 その中にあったのが、青い珠だったんだって」
 チルチルの喋る声で枝が揺れているようだった。
「……同じだね」
「ね!」
 やがて、二人ははにかんだ。そしてやっと言えるという風に、チルチルは壊れてしまった庭を見つめ口を開く。
「わたしが大人になるまで、このお屋敷は村に預けるの。でも、少ししたら帰ってきて、このお庭は絶対直すの」
「そうした方がいいよ。絶対」
「その時は、ニコくんも一緒に行こうよ」
 チルチルの左手が、ニコの右手を優しく掴んだ。ニコの小さな体はぼっと熱くなる。
「ね?」
 顔が赤くなっているのにニコは気付いているが、チルチルは気付いているのかいないのか、無邪気な笑顔だった。
 ニコはその笑顔に困ったように笑い、頷く。細めた目の中に夜空の星が映って消えた。


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