翌日の朝はいつも通りの朝だった。何も変わらない、そんな約束もない。しかし、何かが変わる予感と計画がネフェレと、他の召使い達――いや、館の主人以外の全員がもうしっかりと胸に抱いていた。
 ネフェレは館の入り口に近い窓辺で息をひそめて外を注視している。いつもより風が強いのかカタカタと窓ガラスが小さく揺れている。
 チルチルはどうしたのだろう。ネフェレは静かに、しかし緊迫した己の中で思う。朝起きてみると姿を消していた。自分が保護者であるのに、と己の気のたるみをにがにがしく思う。
「イアソン公の三人は?」
 ネフェレの近くにいて同じように外を伺っていた同僚が、いまこの部屋にやってきた同僚に訊いた。
「逃げ出したのかしら――朝食にもいなかったし、客室にも」
 彼女は首と手を横に振る。ネフェレはチルチルがこの前口にしていた願望をふと思い出し、口の中が苦くなる。まさか、攫われたのだろうか――。
「イーノーは?」
 苦い味を感じないためにそう訊く。そしてふうと息をついた。
「朝食が終わってからずっと寝室にいるみたいなのよ、それが」
 イーノーを監視してきた同僚の一人が言う。
「何かおかしいわね」
 不安のさざ波がネフェレに向かい静かに、しかし確実に迫ってくる。巨大な津波を伴うようにゆっくり、じっくり、生殺すように。それは、何かを変えようとする計画や、何かが変わる予感を彼女の内から溶かそうとするように感じられたが、彼女は首を振る。
「チャンスよ、これは」
 同僚の言葉にネフェレ達は力強く頷き、そしてネフェレはまた窓の外に目をやる。全てを変える合図をまた息をひそめて待つことにした。








 そうした中ニコと太望は、チルチルと最後に会った日と同様に裏庭の方から生垣に沿って再び館に訪れていた。チルチルが青の姫とわかった日以来、二人はこの館に近づけなかった。ニコが彼女に会おうと近づくと、どこか近辺で犬の鳴き声――というよりも番犬が吠えるような声が聞こえた。誰か他の召使いが番犬を館に入れたのか、ニコが侵入できる程、防犯を怠っているのを考えれば当然だろう。
 さらにそれから数日にかけて、二人が野宿する森で多くの獣が無残に殺されていたのを考慮すると、何かしらの怪物か、放たれた猟犬が近くにいたのだろう、そのこともあり、ニコも太望も館には近づけなかった。そして獣達の亡骸を埋めて自分達と同じ命の儚さと悲しみと、再生と循環を祈っていた。
 今日、再び二人がここに訪れたのは、周りをきつく覆っていた警戒が一時和らいだ空気と、番犬の咆哮が聞こえなかったためだ。世界は静かで穏やかだった。二人は進んで進んで、堅牢な門の近くに辿り着く。もちろん堂々と門の前に立っているわけでなく、近くの茂みに身を潜めていた。
「門番がいないのは、おかしいのう」
「門の鍵、かかってないのかなあ」
 堅牢な門は力任せに押しても引いても開きそうにない。誰かに言って開けてもらうことなど無論出来ない。来る者を完全にはねのけてしまう。
 ニコは屋敷から、何か黒くて、しかし動きそうにない何かを感じた。息を飲む。船虫という毒婦でもある女主人――確か、名前はイーノー――を脳裏に浮かべた。遠くからの姿であったが、彼女の隣にチルチルもいた。無邪気に笑っていた。途端に、チルチルへの心配が体を駆け抜け、全身が総毛立つのをニコは感じた。ぞっとする。
「? 何じゃ」
 太望は後ろを振り向いていた。伯父に倣ってニコも見てみると、大勢の男性が緊張した顔つきでこちらへ向かっている。話し声も少ないし、聴こえても真剣な口調だった。緊張した空気がこちらに伝わってくる。ニコはその団体の先方に、見覚えのある顔を発見する。
「与一! スピカさん!」
 太望が小さめの声で二人を呼ぶ。与一はすぐ彼に気付き、隣のスピカと共に男たちに断りを入れて二人のもとへやってきた。
「太望っ! ひっさしぶりだなあ」
「……お久しぶりです、太望さん」
 久しぶりじゃ、と太望は笑窪を浮かべている。
「ニコも、見ねえうちにちょっと大きくなったなあ」
「与一兄さんお久しぶり。――スピカ兄さんも」
とニコはスピカと顔を合わせる。ニコとスピカが顔を合わせたことは非常に少ない。出逢ってすぐに旅立ってしまったためだ。そのためニコは彼をじっくり見てしまう。
 仇討のため、性を偽って十年孤独に闘っていたという。彼の肌は白く、鋭い目も長い髪も細い体もどこかしら女性的な要素に満ちていたが、冷静な面持ちと雰囲気から逆に情熱のようなものを感じ取った。スピカも、ニコを見るのがほとんど初めてだからだろうか、じっとニコを見ていた。ニコの視線に気付いたようで、さっと目を逸らされた。ニコは心持残念な気分になる。
「与一、その弓矢どうしたんじゃ」
 太望は与一が背負っていた弓と矢を指さすと、与一は現在彼らの置かれている状況を説明してくれた。その間にアルゴ村の男性陣が続々と与一達を目印にやってくる。
「イーノーという名、か」
「どうした太望。何か知ってんの」
 実は、と太望も語り出す。イーノーがかつて自分を陥れようとした毒婦・船虫であるということを、太望はどこか沈んだ口調で話した。表情も微妙に陰りが見える。彼のその雰囲気から船虫に対して、彼らしい、哀れみ以外に切なる想いがあることをニコは直感で感じ取る。それは、ニコの父母の話をする際にも見られる現象だ。
「与一さん。ほぼ、全員揃った」
 四人の間に一人の老人が現れる。老人はニコより少し身長が高いくらいであった。彼の目は、与一の方から屋敷へきょろりと移動する。その時の表情や、目の皺や、眼球の潤いは、あるべき場所に戻って来たと――そのようなことをニコに語った。彼が感じている懐かしさをニコはまたしても直感で感じ取る。こみ上げてくる懐かしさを、一つ一つ丁寧に抱き返している、ニコはそんな想像をする。
「戦力が足りないんなら、わしも協力する」
「ありがてえ。お前の馬鹿力は頼れるからな」
 そして与一は老人を紹介し、ニコも自分達を紹介した。老人はアルゴ村の村長だという。
「ぼくも出来るだけ協力するけど、中の人を必要以上に傷つけたりはしないでね、みんなも怪我しないように」
 おろおろしながらもはっきりニコは優しさを主張した。与一はニコの頭を微笑みつつ撫でた。
「わーってるって。中の召使いさん達の心配はいらねえよ。ちゃんと通じ合ってる」
 ほっと息をつくニコにチルチルの顔が浮かぶ。しかしほっとしたのは束の間、そうだ、と大声を出してしまったので周囲はあせり、ニコは赤面した。そしてチルチルのことを話す。
「そうじゃ、忘れとったわい」
「青の姫か?」
 与一はそれからスピカを小突いて収獲あったじゃんと笑っていた。
「うん。チルチルちゃんっていって――」
「何じゃって?」
 それまでただ黙って屋敷を見つめていた村長は驚きの顔でニコを見る。ニコは彼に戸惑いの色を感じた。プリクソス老人は何かを知っているのだろう。
「チルチルが――何かに関係しておるのですか」
「話せば長くなりますが」
「そうだな。もうそろそろ時間なんだ。村長さん、あとで必ず話すよ」
 言いながら与一は弓を持ち、構えた。
「そうじゃな……わかった」
 くるりと老人は村人達の方に向き直る。
「皆の者、準備はいいか」
 おうっと力強い男声が聞こえる。中にはニコやチルチルくらいの少年もいて、彼らの声は場違いなくらい高く聞こえた。
 そして、与一は矢を天高く、放った。

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