晩餐会も終わり、いつもよりどうしてか疲れを感じたチルチルはネフェレに頼んで早めに就寝した。そして目を覚ましたら、二人に部屋に青白い月光が入り込む夜の世界がチルチルを待っていた。十分に眠った彼女はもう一度枕に頭を沈める気分にはなれなかった。いつも通り服を着替えて庭に出た。
 月明かりで、踏まれた新芽を探した。新芽は力尽きたように土に倒れている。直しても直しても眠るように土に堕ちる。チルチルは下まぶた辺りがじんわり熱くなるのを感じたが、きっと花は咲くと、手を組んで祈った。


 屋敷に帰り、音をたてないように、朝の仕事を今の内に済ませてしまう。そして帰って朝を待とうと足を踏み出した時である。
 イーノーの部屋の方から、光が漏れている。
(奥様、まだ起きてらっしゃるのかしら)
 さすがに東の空はまだ明るくはない。しかしただ単に夜とは言えない時間帯であることを、肌に感じる冷たさや月の位置からなんとなくわかっていた。
 そろりそろりとチルチルは静かに女主人専用の領域に入っていく。光が漏れているのは、どうも客室からのようだ。
 チルチルの背丈の三倍はある大きな扉にぴたりと彼女ははりつく。きっと、貴公子達とイーノーが夜通し話に興じているのだろう。どんな話をしているのか、純粋に興味があったため、もっと扉に耳を寄せる。


「――西の小屋の女共を――」
「夜の内に――連れ出して」
「道を作っておいて――」


 何の話か見当もつかないや、とチルチルが判断してしまう前に、数日前のネフェレの言葉が復活する。


 ――ここの女の人達は、人身売買に流されてるのよ。


(もしかして――ううん、奥様がそんなこと。それに私達は、北側に住んでるもの!)
 しかし否定をしてくれるはずの貴公子全員が扉の向こうでその話をしているのだ。いや、イーノーはここにはいない、三人だけで話をしているんだとチルチルは固く信じた。だが現実はその信念を翻弄する。
「それで――金のことだけど」
 イーノーの声だった。チルチルはこの世界が夢なのではと何度も何度もまばたきをする。しかし視界は良好で明確で、しかし夜の闇がチルチルを飲もうとあちこちで待っていた。光が零れてくる部屋もしかし、黒い企みが生まれている。
(嘘よ!)
 チルチルはそこから離れようと足を一歩、後ろにやる。
「そこにいるのは誰?」
 紛れもない、イーノーの声だ。チルチルは首を振る。何度も振る。
 嘘だ。そんな話はしていないのだ。違うんだ。チルチルは震えていたが目は閉じない。その震えを生みだす恐怖はチルチルの存在を根本から冷やす。体に通った、自分自身を世界に留める為の軸に、恐怖が走る。
「あら――チルチル」
 妖しく微笑するイーノーが、嘘偽りなくチルチルの目に映る。本当の世界だ。いつもの世界だ。しかしその妖しい笑みから、いつもは感じないものを感じる。その赤い目からいつもは思わないものを思う。チルチルの語彙の中に存在しないようなものまで、思考の神経を急いで渡ってくる。
 残酷、残虐、冷酷、畏怖、あるいは――


 恐怖。


「立ち聞きはいけないわね」
 チルチルは手に肌に汗を感じた。視界が滲んできた。しかし夢が覚めるのではなかった。ここは現実だ。ただ涙が浮かんでいる。
 肩に優しくイーノーは手を置き、青い目と赤い目が向かい合う。イーノーの右の拳がチルチルの鳩尾を撃ち、チルチルは気を失う。しかし涙が浮かんだ時点からチルチルは、何が起き、何が自分の身に起こるのか、一切経過を認識できなくなっていたのであった。

   4
第六話に続く
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