実家の旅籠の様子を見に行った帰りであった。夕暮れ時に、瞳に初めて映す茜色に、早く道中の宿を探そうと心が急かされた。
 事件の発端はそんな道先で起こった。
 付近の山から降りてきた猪に男が襲われている場面に遭遇したのである。


 太望は一度目を開け船虫であろう女性を隠し見た。ニコは黙ったままの伯父を見る。彼は口下手だが今日のように、ニコも誰も口を出せない深刻な沈黙を自ら発しているというのは稀なことだった。太望は再び目を閉じた。


 その猪を辛うじて退治した太望はその男を介抱した。その男こそ――太望はもう一度船虫を見る――船虫の夫であったのだ。
 男は謝礼の宿として自分の家に寄るように言い、そして太望と船虫は――出逢ったのだ。
 ――もう夜も遅いです。お眠りになってくださいな。
 ――いや、まだご主人が戻られんのに……。
 船虫は回想の中で艶めかしく唇の端を上げる。太望が退治した猪には懸賞金が懸けられていて、きっとその金で友人達と騒いでいるんだろう――そう告げた。言葉を紡ぐ仕草も、伏し目がちになる様子も、あらゆる船虫の一挙一動から、太望の心に何か甘ったるくて、しかしうかつには手を出せない恐怖めいたものが湧き上がるのを、彼は確かに感じていた。太望と薄暗い寝床で交わした言葉は、夜の魔力と混じり合い、糸を引くような色っぽさと、何故か感じられる淑やかさもあった。
 そして、真夜中。
 太望の寝床に夜盗が忍び込んできた。主人がいないのをいいことに盗みに入るとは、と太望は己の正義と――そして、太望の心に何か訴える、船虫の為に動かされ、拳をふるった。しかし太望が殴ったのは、――夜盗ではなかった。
「おじさん? どしたの?」
 小声だが素早い息にすり切れるニコの声が、太望の身に起きている異変に気付かせる。彼の厚い頬は二筋、三筋の熱い雫が流れていたのだ。


 太望は――船虫の夫を殺した。


「――大丈夫じゃ。しばらくこのままで」
 浅黒い手で顔を覆う。船虫もあの時こう泣いていた。自分の夫が命の恩人を殺して金品を奪おうとして、情けないと、彼女はそう言った。
 ――仕方のないことです。あなたが泣くことではありません。
 船虫は夫を弔いたいからと、太望を静かにその家から旅立たせた。その際にせめて資金の助けになればと受け取った笛がその後、船虫の悪行を明かす鍵となり、スピカのもとへと導く糸ともなったのだが、太望は涙を拭き現実を考えようとする。しかしまだぽたぽたと涙は落ちる。このような場所だから静かに泣かねばならない。しかし城や実家にいれば声に出して豪快に泣いてしまうだろう――太望は口内に広がる甘酸っぱいものを飲み下しそうしたい衝動を抑える。太望は泣き虫ではないが、泣くべき時ははっきりと泣き、情に脆くて、その大柄さからは想像しがたい繊細さもあった。
 太望は大きくかぶりを振り、チルチルと船虫に気付かれないように鼻水をすする。
「いや大丈夫じゃ」
「ほんとに?」
 ニコの愛らしい茶色の目は、真に太望を心配していた。太望はニコの人工的な金の髪を優しく撫でることで自分の無事を伝える。

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