無事に食事が終わる。チルチルとネフェレは皿洗いをして洗濯物を片づけ、今日一日の仕事を終えようとしていた。イーノーの元へ就寝前の葡萄酒を持っていくのが、チルチルの今日最後の仕事だった。収蔵庫に行こうとするとネフェレが道をふさぐ。
「お酒は私が持っていくから、チルは先帰ってなさい」
「? いいよ、わたしがするよ」
「いいから」
 チルチルは眉を下げ首をかしげながらも、わかったと言う。ネフェレの顔をじっと見るが、何を考えているのかチルチルには知るすべもなかった。
 ネフェレがかつかつと足音を立て暗い収蔵庫へ行くのを見届けてからチルチルは使用人達の住む離れへ向かった。

 ネフェレはチルチルより八歳年上の十九歳で、友達や仕事仲間というよりも、両親のいないチルチルと共に育ち、そして育ててくれた点から言って姉と同等だった。納められなかった税の代わりとして、八年前にこの館の奉公に出されたネフェレと幼いチルチルは、二人一緒に生きなければならない状況を余儀なくされた。悲しむべき状況だが、チルチルはネフェレがいて、そしてそれほど過酷ではない奉公の日々を日常としているのだった。仕事はチルチルのような少女にとって本当は過酷なのかもしれないが、ただ慣れてしまっただけかもしれないと、チルチルは思っていた。

 服を脱ぎ寝巻きに着替える時にチルチルは左腕をちらと見た。昼間ニコが強く握ったその腕には昔から青いあざがある。それを見て、ニコという少年のことを思う。和秦から来た金色の髪の心優しい彼は、何をしにそんな遠い所から来たのか話さなかった。
(なんだろう。人探しかなあ)
 ただそれだけ思っただけで、ニコから連想して今度は近日中にやってくる三人の貴公子を思った。姿も顔も名前も知らない高貴な人を、チルチルは純粋に、絵本に登場する王子の存在に近いと考え、胸をときめかせた。
「どんなお方達なのかしら。わたしを召使いか庭師に貰ってくださらないかなー」
 この館に身分の高い人々が訪れると、時々何人かの使用人を気に入り、自分の館へ連れていくことがある。最近では、それが頻繁に起こっている。チルチルは、別にこの館に嫌気がさしたわけでない。単に新しい場所に行ってみたいだけで、十分に起こりうる未来を頭に思い描き、わくわくする気持ちが体に浸透していくのを心地よいと思っていた。

 ネフェレが帰ってきたため、ねえねえと彼女にチルチルは自分の冒険心を屈託なく話したが、ネフェレは口をへの字に曲げ、見るからに不機嫌そうだった。
「チル、あんたにきいてほしいことがあるの」
 ネフェレはその顔をぴくりとも崩さずエプロンを脱ぎながら言う。
「そうやって自分の館で働かせるって釣られて、ここの女の人達は、――人身売買に流されてるのよ」
「じんしんばいばい?」
「お金で人を買うことよ」
 私達も似たようなものでここに来たけど、と小さく言った。
「何週間か前に五人ほど出て行ったでしょ」
「お偉い役人様のお屋敷に仕えるようになったんでしょ?」
 ネフェレの口調を真似てチルチルは可憐に首をかしげた。
「騙されてるのよ、それは! ついていったら、ここよりずっとひどい扱いで働かなくちゃいけないし、それに」
 ネフェレは目を伏せた。目の前の少女に説いても解らない凌辱もありうることを口にするのに憚りがあった。チルチルはその先の文脈が解るには少女であり過ぎた。
「とにかく、奥様――いいえイーノーが私達をその闇に流していることが段々わかってきているの。だから」
「うそよ。奥様がそんなことなさるわけないじゃない」
 チルチルは夜なのでそう高い声はあげなかった。しかしその言葉はネフェレにはやや大きく聞こえた。疑うことを知らない子供であることが、ネフェレの耳を通してはっきりと感じ取られ、ネフェレはそれでもチルチルを真摯な目で見つめる。
「あんたは使用人の中でも子供だから可愛がられてるけど、イーノーは私達を金儲けの道具や金づるにしか思っていない――毒婦よ。役人や貴族を連れてくるのも、その為にいろんな悪行をするから」
「なんでネフェレはそんなこと言うの? ネフェレはそんな話をしてる奥様を見たことがあるの? 嘘よっ!」
 チルチルはイーノーが美しく微笑して自分に話しかけたり、自分の育てた花を褒めてくれたり、自分にだけ気遣ってくれた、まるで――彼女の知らない、母のような姿を思い出しながら食い下がった。
「チルは何も知らないから疑えないだけよ!」
「ネフェレこそ何にもわかってない! 何でそんな風に言うのよ、ずっとお仕えしてる、のに」
 次第に泣き声になってきたチルチルはベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋めてひたすら泣いたが、泣き声は自分の体から出ては帰っていくようにその場に聞こえた。ネフェレは他の部屋で休むつもりか扉を乱暴に閉めて出て行った。息がつまりそうな空間で、チルチルは一人になった。チルチルは自分の中のイーノーを真とし、ネフェレを偽にして、白と黒で塗りつぶす。そして、いつかやってくる王子のような三人を想った。

 いつか自分のもとにやってくる王子様はそんな嘘をとっぱらってくれる。イーノーはそんなことをしていないと言ってくれる。枕に顔をうずめながらチルチルはひたむきにそう思った。その想いは熱くまっすぐで汚れがなかった。触れれば命を落としそうなほど、必死なものだ。チルチルはそのことに気付かない。涙は布を熱く濡らしていった。

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