ずどん、と再び鈍い音が鼓膜を震わせた。何発目かの、大砲の音。シュリは今自分のしなければならないことにようやく意識が向いた。
 玉響のわけの解らない戯言にいちいち気を向けていられないのだ。そんなことをしている間に火の蛇は街を、命を喰らっていくのに、何をぼうっとしているんだと己を心の中で罵倒する。頬を叩き、牢屋を抜け出したシュリはしかし、城にも異変が起こっていることに気がつく。
 何か、変な匂いがする。そして迫る熱気を感じた。何だろう、ともかく廊下へ出なければと駆け、見えた扉を開くと――
 炎の波が、廊下に揺れていた。
「ここでも、火事……?」
 玉響がやったのだろう、シュリは固く思う。どういうわけか、火の扱いにかけては右に出る者はおらず、その上何かの妖術や魔術を心得ている。となると、長屋や貴族街の火事も玉響の仕業だろう、シュリは歯を食いしばる。
 まだ、火は弱い。下に行けない程ではないと、シュリは走り出した。熱がシュリの行く手を阻もうと体力や集中力を低下させていくが、シュリは駆ける。
 その内前方に人影が見えた。どうもその形に見覚えがある。
 オーレだった。
「シュリ君、やっぱりここにいたのかい」
「あなたは……確か、オーレさん……? どうして、何で、ここに」
 嬉しそうな彼の背後からひょっこり顔を出したのは、またもや見覚えのある顔――というよりも姿だった。京で出会った、全身に赤い刺青を施した少女がそこにいた。少女は目をぱしぱしと何度か瞬かせ、くりっとやや見開く。
「あーっ! スーちゃんスーちゃん、京で会ったあの子だよ」
 彼女がひっぱり出した人物も同じく、京で出会ったことのある人物だった。青い巻き髪を腰まで伸ばした白い肌で細身の、女のような顔立ちをした男だった。特に驚いた様子もなく、無表情に近い顔でシュリを見ている。
「何でここにいるかって、そりゃシュリ君を助けにきて、お迎えに来たのさ。こっちの女の子は、蟹座の赤の姫、カーレン君で、女とも男ともつかないうだつのあがらない子は乙女座のスピカ君」
 余計なものがついてますよとスピカはじろりとオーレをねめつけるように見た。その目つきは厳しい。そういえばと、シュリは思い出す。彼は京で、玉響を殺そうとして――玉響を、自分が庇ったのだった。その後のことは、よく覚えていない。スピカもとりあえずか恒久的にか知らないが、忘れているのであろう。シュリは俯く。そんなことよりもやることがあるのだと顔を上げた。
「行かなくちゃ」
 京安――華北を、みんなを、助けるのだと、三人の間をすり抜けて駆けた。シュリちゃん、というカーレンの声が寂しげに熱に溶け、シュリはあっという間に階下へ消えてしまった。カーレンは不安そうに眉根を下げた。
「……火が、幻でも見せたみたいだよ……」
「まあ、花火君達も来てるだろうし、彼女が真に黒の姫なら必ず一緒になるよ」
 スピカは、これからここの階に残っていると予想される人命の救助に取り掛かろうとする長兄――オーレを見る。そして小さく恨み言を言った。
「なら、僕の手をあの日、放してもよかったんじゃないですか」
「……」
 あの日――スピカが多くの人を殺し、しかし、本当の標的を殺せなかったあの日に、スピカは運命に引きずり込まれたのである。最初に出逢った太望はただ見守っていてくれたのに、この男が手を掴んで放さなかった。
 だからスピカは今こうして運命の盤上にいる。そして標的を――三度目の正直となる今、追っている最中だ。
「まあーだ、ねちねちねちねちと、根に持ってたの」
 真剣なスピカをわかっているのかいないのか、にやにやオーレは笑った。わかっている時の笑い方だ、スピカは直感的にそう思った。
「今、果たせばいいだろう」
 だがオーレは笑みを止め、普段見せないような、厳しくて、どこか冷たい顔をしてスピカを見る。笑みが消えただけでスピカは急に心細くになり、気付けば隣のカーレンはどこか張りつめた弓のように真剣な表情をしていた。
「僕が、何も気付いていないと思ってるの」
 言葉は表情とは違い、いくらか柔和な印象があった。
「ここにいるね。君の仇――君の生きる理由でもある――玉響は、とてもすぐ近くに」
「止めないんですか」
「止めてもらいたいの?」
 オーレはようやく笑った。呆れて眉を曲げているが、どこか嬉しそうだ。
「君は京でもそんなことを言っていたね。そうだな――京ではきっとまだ駄目だったんだろう。時機じゃなかった。運が巡ってはいなかった。そして君は君しか、見えていなかった。自分だけが周りのあらゆるものより勝っていたんだ」
 オーレはスピカを見、それからカーレンを見た。しばらく彼女を見てからまた視線はスピカに戻る。
「でも大丈夫」
 再び見せた笑いはより一層、スピカを和ませるものであった。
「今は、君には守りたいもの、大切なものがあるはずだから、惑わされたりはきっとしないよ」
「……どういうことです?」
「スーちゃん」
 黙っていたカーレンがスピカを呼ぶと同時に手を掴んだ。
 炎の揺れから伝わる熱ではなく、人肌の、確かな形を持ち、触れた相手を想うその温かさがスピカを次第に落ち着かせた。――玉響が近くにいることを自分もわかっていたから、実はさっきから動悸が激しくて仕方がなかった。
 緩んで、いく。
「今のスーちゃんなら大丈夫だよ。私もいるよ」
 そして彼女は笑う。灼熱の炎の中で人肌の頬花を咲かせた。
「ほーら、ぐずぐずしてると火が進んで出らんなくなっちゃうよ」
 ばんとスピカの背を叩くオーレ。見れば、いつもと変わらないあの笑みが浮かんでいた。
「――こっちだ、カーレン」
「うん」
 そしてスピカと赤の姫はシュリと反対方向へ走り出す。火の海の中へ、スピカは十年前の記憶、カーレンは秋の記憶を胸に抱いて飛び込んでいった。



「さて、……と」
 オーレは独り立ち竦む。城の中に残されているかもしれない人々を助けるのが彼の目下の任務だというのに、紅蓮に燃える炎の熱をしばらく感じながら、頭を抱えていた。
 自分にも何かが迫っているのを、彼は予感していた。終わりか決断か、それに似たものが。




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