「星を見ていたのですね」
 呼吸が段々苦しくなってくるのを他人事のように感じた。頷かなくとも玉響は続けた。
「この華北の人々は――」
 冷たい彼の手がシュリの頬に添えられる。その感触さえも、別次元のことのようだ。
「苦しんでいる民衆は、圧政の文字通り押し潰されて――地に伏せって空など見上げもしないというのに――ずいぶんとご上品なことですね」
 感触は別次元だというのに、その玉響の言葉はシュリに向かってくると言うより、シュリの内部で鉄砲を乱射し、脳も内臓も肉も何もかも破壊し――ともかくシュリを壊すように聞こえた。内部で迸る血がぐるぐるぐると体に巡る。巡っているが、それが正しい方向に進んでいるかすら、わからない。
 そうだ、そうなのだ。シュリは目が覚めたように瞬きを繰り返す。華北の民衆――尭や玄冬団が救おうとしている人々は玉響の言う通り、押し潰されている。願いを天に叶えてもらうために、天に平伏している。
 しかし天は、空は、星は――はたして願いを聞いているだろうか? むしろ、見上げなくなった民衆に罰を下している。食糧がないから血を分けた子を捨てたり、殺したり、着る服がないから他者から奪ったり、殺したり、死んでいったり、殺されたりしている。そこには星のきらめきのような生命の息吹は、無い。
 シュリだけがぽつんと佇み、星を見上げている。彼らを見捨てるつもりは無いのに。願いをかけるわけでもないのに。

 自分が救うはずなのに。

「あなたはこの玄冬団という社会から逃げたがっているのですよ」
 玉響は違う爆弾をまたシュリの内部に投げ込む。荒かったシュリの息はぴたりとやむ。目を丸くして、玉響の赤い目を見つめる。
「かぐや姫のように出ていった花依を本当は、憎んでいるんでしょう?」
 その赤い目の泉に映っているかのように、シュリは異国の姫を、大切な妹を思い出す。
 屈託のない笑み。笑っているだけで周りに花が咲きそうだ。自分達と同じ場所で育ってきたのに、同じ場所で死なない運命の持ち主だった。穢れた中にいたはずなのに、決して穢れること無く、本来の清らかさを花咲かせた。そして彼女は、行ってしまった。あるべき場所へ、穢れた自分達を残して。信乃と、そして双助を連れて。
 ――違う。
 シュリはそう思う。しかしその言葉は掌に落ちた雪のように脆く、現実から溶けてゆく。いや――自分が溶かしてゆく。花依は見捨てていないと思っているのに、どうしても強く叫べない。自分に誓えない。
「あなたもここを、抜けだしたいのでしょう」
 玉響の手がシュリの頬を離れ、シュリの下腹部に触れる。気持ちの悪い感触がなおも伝わってくる。その場所は――例のあざがある場所だ。
 双助は約束した。シュリを迎えに再び訪れると、そう託した。しかし双助も花依と一緒に向こうの世界へ行ってしまった。シュリだけが穢れた寂しい世界にとどまっている。
 ――あたしはここを、抜け出したいの?
 己に問う。違う。と、今度は強い言葉がシュリを刻む。華北を、苦しむ人々を助けなければ。それがシュリの生きる理由だ。玄冬団から抜ける? 華北を去る? それはシュリに死ねと言っているものだ。
「あなたは星を見ていた――星が作る道をあなたは見ていた」
 玉響の声は、シュリの内部にある脆い玻璃の壁を儚く容赦なく打ち砕いていく。双助の約束を、びりびりに引き裂く。

「だからシュリ、あなたはここを捨てたいんでしょう?
 ここを捨てて南へ、行きたいんでしょう――」

 違う。違う違う違う。

「ちがう!」

 シュリは夜の静寂の中でただ、叫ぶ。
「ちがう! あたしはこの華北に生まれて、玄冬団で育ったんだもの!」
 重たく感じる腕を振り上げ、玉響をつき離す。玉響は依然嗤っていた。シュリは触られていたあざの部分に目をやる。
 ――シュリさんも、お姫様ですよ!
 双助の声を、かぶりを振って消し去る。

(このあざは――ただきっと、うんと似てるだけで、違う……!)

 花依と信乃と並ぶ双助の笑顔が浮かぶ。瞬きを何度もして、幻影でしか無いそれを振り払う。
「あたしは――わけのわからない運命なんか背負ってない!」
 陽姫――玉梓? 里見? 星座? わけがわからないと、シュリは鼻で笑う。玉響も嗤う。

「この国の人達の為にあたしは生きて、戦って、死ぬのよ!」

 シュリの外にも内にも、それは強く響いた。脆い玻璃ではない、太陽の熱でも溶かせないような黒く、固く、冷たい壁がシュリを守るように出来上がっていった。
 玉響の赤い目が、嬉しそうに輝いた。


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