オーレが予想した通り里見に迫る黒雲は、わりと早い段階から姿を現し始めた。
「蟇田素藤?」
 瀧田城の庭園に花依や信乃達が集まり、束の間の平和を象徴する長閑な昼下がりを過ごしている頃だった。安房は暖かいので外でも十分のんびり出来る。陽仁とシリウスから誰ともつかぬその名を聞いてオーレが訊き返す。
「……寡聞にして、私はその存在を存じておりません」
 花依が帰って来た、その翌日のことだ。だろうなとシリウスが返す。男同士の会話は自然と周囲に聞く耳を持たせていく。
「館山城の新しい城主らしいが……」
 瀧田城から北北西に進むと、小ぶりながらも重厚な造りの、館山城にたどり着く。その城がそびえ立つ地はもう里見家の領地ではない。
「私も知らなかったさ。無理もない。
 それが実に不思議なことに――花依を嫁に貰いたい、と書簡がきた」
「えっ」
 声を上げたのはおそらく最も驚いているであろう花依であった。数日前初めて帰国したというのに、自分の存在をもう知られていたのかと不気味に思っているようで、彼女は腕を軽く抱きよせた。
「勿論、まだ花依のことは公表しておらんのだぞ」
 陽仁が慌てて言う。陽姫と十二人が揃った時に初めて花依の存在を世に知らせるつもりだ、と愛する娘を心配そうに見つめた。
「大体、どこの馬の骨とも知れん、圧政を敷いているような奴には、絶対嫁がせん」
 蟇田某の名前を知らなくとも、館山城周辺の民衆の暮らしぶりは劣悪だと、近場である里見では多少知られていることであり、蟇田以前の領主の政治と支配も、とても仁政とは言えないものであった。かつては大量の難民が里見に流れ込んできたこともあったという。
「私も、やっと姉上と一緒になれたのに、また、それもこんなにすぐに離れるのは嫌なのだ」
 花依は二人の肉親の想いに心が動いた。それに、と花依は控えめに信乃を見る。信乃もその視線に気付いたようで、強く頷く。
 当然、全員から反対意見が上がり、里見家は丁重に断りを申し出たのである。















 暗雲が垂れこめ、誰しもを寄せ付けぬかのような山肌に、ひっそり建つ館山城。
 人の気配のしないその城の最上階において一組の男女が何かを話している。
 男は四十過ぎ程、浅黒い顔に濃い髭、目つきは鋭いものの、いやらしく曲がった唇やめやにが、見る者に彼を醜く思わせてしまう。
 そして女は――紫色の袈裟を身に纏っているところから、尼僧のようだった。
 しかし、彼女は身を俗世に縛る証である、大河のような美しい黒髪をなみなみと流していた。病的にも見える白い肌と、薄暗い部屋の中で異常にはっきりと見える赤い目が、彼女の妖しい美しさを形作っていた。
「里見の野郎、ふざけやがって――」
 男が握り潰した書簡は里見家から蟇田素藤に送られたものであった。
 男は素藤本人。書面には、素藤は素性が知れない、花依はまだ歳が若いゆえ嫁げない等といった、至極真っ当な理由が丁寧な字でしたためられている。
「――次の手に移りましょう」
 女は、しかし素藤ほど腹を立てている風ではなく、むしろそうなるのが当たり前だったとでも言うようだった。
 女は言う。

「この妙椿に、おまかせを」

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