黒の章 零




 頬に、刃物のように鋭くて冷たい空気が触れている。


 信乃の視界は黒い。わずかに見える色も全て黒に還元されていく気がした。何がその漆黒の闇に潜んでいるか、わからない。しかし目を空に向ければ、そこに広がるのは、群青の夜空、それを支えるように輝く星々の光景だった。空なのにそれは、海がきらきらと光っているように見えた。
「双助、もう寝た?」
 信乃は隣に横になっている男にそう訊く。
「信乃さんが寝てからでないと、おれは寝れませんよ」
 人懐こい、優しくてどこか安心できる声が届いた。
「もう、子供扱いしないでくれよ」
「だっておれは信乃さんの義兄ですよ」
「義兄弟になろうっていったのは、おれの方だよ」
 だから自分の方が兄だ――と信乃は呟きながら、星を見た。そうしていると、信乃はその会話のためか、ちょうど双助と義兄弟の契りを交わした頃のことを段々思い出してきた。
 父が刀を、そして自分を守るために腹を切って死んだ日のこと。血まみれになった信乃はただ呆然と父の亡骸を見つめるしか出来なかったこと。
 水瓶の底から光輝く珠を見つけたこと。双助も同じ珠とあざを持っていると知った時のこと。優しく自分に接し、心を尽していた双助に気を許した時のことや、花依や、その兄の花火と共に過ごした時のことも、まるで今見上げている星々のような、確かに存在しているという美しさや輝きをもって信乃に迫ってくる。
 その思い出の中には、辛いことも悲しいことも含まれていた。しかし、思い出となってしまえば、手をどれだけ伸ばしても、手にすることは出来ない星になる。もう二度と、訪れることがない、一瞬の流れ星のような思い出達を心に積んで、そして今を生きる。
 悲しんでばかりも、いられないのだ。




 信乃さま。
 花依も一緒に、連れて行って――




 かつての――もう死んでしまった婚約者の涙の訴えはしかし、その思い出達の中で一際大きく輝き、悲しみも辛さも嘆きも悔いも、あらゆるものが少しも色褪せずに信乃に近付いてくる。



 花依が死んでしまったことなど嘘のように。



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