最初に出逢った時は、ああ、またか、と思っただけだった。
 私達が何度も同じ世界を繰り返していると、ふとそういう異分子が現れることが稀にある。いつも決まった生徒や教師の顔触れの中にそっと紛れ込み、次のタームを迎える頃には消えて無くなっている。映像の乱れ。音楽の雑音。ページの乱丁や汚れ。夢にも過ぎない、単なる幻。私達にとっては、そういう存在は一様にその程度のもので、至ってつまらない存在だった。
 彼も例外ではなかったはずだ。

「やあ、はじめまして!」

 しかし彼は悲しいかな、次の春には消えゆく運命ということも知らず、明日を夢見る目の輝きを私に向けてきた。ついでに皮の厚い武骨な手を何のためらいもなく私に伸ばしている。その場にいたのは私だけだった。他の連中はどうしているんだろう。
 渋々私は彼と握手した。今思えば、あんなに無愛想に、やる気もなさそうにするものでなかった。実はひどく後悔している。初めて彼に触れた時だというのに。……まあ、感傷的なことは今はおいておこう。
「しっかし寒いねえ。暖房きいてるのかい? うひゃあ、ぶうぶう吹雪いてら」
 大げさに彼は体を震えさせ、少しでも暖かくなろうと制服を摩る。
「これじゃあみんな下校したくなくなる気持ち、わかるよ本当! ねえ?」
 うるさい奴ね、馴れ馴れしい、と私は内心思っていた。初対面ということもある。だがそれ以上に私という存在が肝要だ。その時も今も、人間の、それも女の、こんな小さな姿でいるけれど、――本当は人間なんかが手を握れた存在ではないのだ。ましてや異分子ごときが。
 まあその話はおいておくとしても、それにしたって彼の元気の良さは目を見張るものがある。今までこんな異分子はいただろうか――何分、何十何百もこの世界を繰り返してきて、その中でもほんの少数の異分子達としか触れ合えなかったから、判断がしにくい。
 まあまず、私が人間と触れ合うなんて、おかしな話なのだけど。

「寒くないの?」
 彼はまったく私の心情を考えずに暢気に訊いた。
「先輩こそ、結構太ってるくせに、寒がりなのね」
 彼は痛いところを突かれたようだが、苦笑して「君、言うことはずけずけと言っちゃうんだねえ」と頭を掻いていた。その時の彼の表情といったら、泣き笑いに近くて、情けないにも程があった。私でなくとも軽蔑してしまいそう。
 彼は寒い寒いと経文の如く繰り返していたのに、冷気が漏れる窓辺へ寄った。そこに暖房機があるからかもしれない。
 窓の向こうも、天上も、地上も、一面真っ白だった。雪は強大な風と共に舞い、どことも知れぬ土地を目指す。

 まるで世界の果てを目指す旅人のように。或いは、風と一生を添い遂げるように。

「早く春にならないかなあ」
「……春が来て、何かいいことがあるの?」
「あるさ。花が咲くじゃないか」
 馬鹿だ。頭の中が既に春じゃないの、と私は内心鼻で笑う。
「……咲いたって、夏になる前にみんな散っちゃうわよ。バカみたい」
 私は何百という春の訪れ、それを寿ぐ樹木の開花を見てきたが、同時に何百という花の死骸を、生命の衰えを目にしてきた。
 意外にも、彼はそれを聞いて頬をぷくっと膨らませた。私は訝しむ。精々そうだねと納得するか、何か妥協するかという会話の流れになると思っていた。
「君は、季節の移り変わりを楽しめない、寂しい子だなあ!」
 大袈裟に彼は言うが、本気だっただろう。
「いや、どんなものにもある「生涯」を尊重して慈しむことが出来ないんだよ、悲しいよ」
 ……とんだ正論だった。まさかこんなに面と向かって怒られるとは、さすがの私も予期しておらず、間抜けにも目を丸くしてしまった。何度も繰り返して過ごす中で、予知の力が薄れてきているのだろうか……。
 それが本気の怒りでは無いとは十分承知しているが、それでも、あれだけ真摯に私にぶつかってきたのは、多分彼が初めてだった。

 幻であるはずなのに、言葉に確かな質量をもって。

「春にはいろんなことがあるんだよ? 花が咲く、生き物が冬眠から目覚めて地上に帰ってくる、野菜や果物は瑞々しい。なんといったって天気がいい! 春の長閑な日和は眠気を誘ってくれるよ、春眠暁を覚えずってやつだ。
 寝てばっかりじゃないぞ、春の風の気持ちのいいことといったら、君、あの中を走ってごらんんよ、きっと胸がすかっとして、心も体もいいようのない春の暖かさに満たされるんだよ?
 特にいい気分なのは……ほら、すぐそこに河川敷、あるだろう? 今は禿げた木が並んでるけど、春が来ると本当に、めいっぱい、どこまでもどこまでも薄紅色の道が続いているように思える程、桜が咲き乱れるんだ。本当に綺麗だよ? あそこを散歩するのがねえ……」

 私は、そのお説教に幾分か気を害したのだろう――彼が何を言ってもつんと澄ましてあさっての方向を向いていた。彼の春賛美など、どうでもよかった。……けれど、その場にはさっき言ったように私以外の仲間はおらず、おまけに音楽もなく、ただひっそりと肩身狭そうに暖房が稼働しているだけだったのだ。だから、自然と彼の声は耳に入ってしまう。
 突然、彼は語るのをやめた。どうしたんだろうと私は彼に目を向けた。
 目と目が合った時、笑っているのか辟易しているのか一概にわからない顔をしながら彼は言った。
「参ったな。君が笑わないのが悔しいよ」
 目を瞬く。その時私は、どんな顔をしていただろう。咄嗟に切り返して彼に反駁も出来やしなかった。本当に、馴れ馴れしい人だ、そう思っていた。まるで、負け惜しみのように。
「そうそう、君の名前、まだきいてなかったね」
 何て言うの、と目で優しく問いかけてくる。私は、私に付けた人間の名前を答えた。
 すると彼は――まるで春の日差しのように、柔らかく、しかし暖かな笑みを浮かべた。
 それに限らず、私が記憶している彼の微笑みは、いつだって春を象徴するような穏やかなものだった。
「やっぱり、君は春が好きなんじゃないの?」
「……嫌いとは、言ってない」
 だろうね、と、ますますその笑みを深くした。
 先に断っておくけれど、私は特にその名前に愛着を持っていたわけでもないし、変えようと思えばすぐに変えられた。適当に付けた名前に過ぎない。執着などなかったけれど、今はある。私が持つものの中で、一番彼を想う形見になるものだ。

 全部、彼の所為だ。

「春で一番美しい花だ。
 とても、いい名前だ」










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