「ん……んんん」
 目蓋を上げるのが辛い。それほど心地良い。私は暖かな生徒会室の事務専用机に突っ伏して、体を丸めて眠っていたのだが、どうもその幸せな時間は終わりみたいだ。どうしても私は覚醒してしまう。
 むっくりと、頭を起こした。髪の毛が顔に張り付いていて、顔は制服の皺がうつって跡になり、少し赤くなっていた。
「何の夢見てたんだろ……まあ、いいや」
 この部屋は暖かいため、授業疲れがたまっているとついついうたた寝をしてしまう。だるい体をしゃきっとさせ、すっきり目を醒まさんと窓を見る。
 窓の向こうには、はらはらと雪が舞っていた。眠い目には眩過ぎるばかりの、真っ白な世界が広がっている。

 昨日から雪はずっと降り続いていた。冬の風に舞う雪の花びらは、無彩色の風景の壁に模様をつけている。
 暖かいこの部屋から見ると雪はまるで観賞物に過ぎず、外に出ればたちまち私達を弱らせる冷たい障害でしか無いのに、室内ではまるで暖を司る妖精さながらの美しさだった。そして雪は、全ての音を柔らかくくるんでいくように外のざわめきを伝えない。静かだった。
 私のいる生徒会室もそれに輪をかけて静かだった。勿論、暖房やヒーターの稼働する音があるが、逆にそれが静けさを引き立てている。それもあるだろうけど、ついさっきまでくだらない話をしてそれなりに盛り上がっていた所為もあるかもしれない――様々な要素が結果として中心に鎮座ましましている静寂を逆に目立たせていた。
 そしてその静けさは眠気とどうも仲良しらしく、私をうたた寝の世界へいつも以上に誘った、というわけだった。
 よく周りを見ると、部屋には私一人しかいない。なるほど、これでは静かなわけだ。衣服の乱れを直し、椅子に背を預けて伸びをしてみる。
 自然と頭の中で議題となるのは、他の生徒会役員がどこへ行ってしまったか、ということだ。

 会長の松尾さん――先輩だけど、さん付けしたくなるような人柄だ――はよくいろんなものを失くすおっちょこちょいな人だからまた何か落としたり忘れたりしてるのかなあ、とか、書紀の賀茂先輩はいつも本を読んでるから新しい本でも借りに図書室に行ってるのかなあとか、三輪先輩は奇抜な格好をしては私達を驚かせる人だから、また何か新しいアイデアでも思いついてまたまた私をからかおうとせんべく街に出かけているのかしら、とか、高砂君は元気な子だから雪遊びでもしてるのかな、とか、霞ちゃんは明るくておちゃらけた子だけども、このメンバーの中では比較的真面目できちんと毎日生徒会の仕事をしているのに、どこ行ってるのかな、とか。そして、桜ちゃんは……。考えが詰まってしまい、頭を掻く。

 実は、同じ一年生だけど桜ちゃんとはあんまり仲が良くない。私は彼女のことを嫌いとは思っていないのだけど、私の何が気に入らないのか、まともに話したことも数回程度なのではないかと疑ってしまうくらい、接触が少ない。
 そんな桜ちゃんが私一人しかいないこの部屋にいないのは、至極当たり前のことだろう……。

 再びまどろんできた頭でそんなとりとめもないことを考えていると、ぴーぽ、ぴーぽ、と何かの音が鳴る。何だろうと振り向くとストーブの時間切れをお知らせする音だった。
 十分暖まっているが、稼働を続けないと急に寒くなってしまう。資源の無駄とはわかっていながら防衛本能には逆らえないので、私は時間延長のボタンを願いをこめるかのようにえいやっと押した。聞き分けが良い感じのする電子音がなって、消費されていたランプは満たんになった。
 それを見て何故か気分の良くなった私は、にんまりと笑いながらこのままもう一度眠るのもいいなあと思った。使い方は間違っているかもしれないけど、思い立ったが吉日と言わんばかりに、さっそく体は眠くなってくる。おやおや自分の体の方が聞き分けがいいことで、と思いながら私は再び着席し、心中で誰に告げるともなくおやすみなさいと言って、目を閉じる。
 ところが、腕に頭をのせようと思ったまさにその瞬間、何かがどさどさっと落下した音がした。その不意打ちに思い切り体は震え、既に現実と夢幻の境界にいた私だったけど、眠気も何もかも体中から吹き飛んでいった。
 私は飛び起きる。左右を見るが、原因は向かいだった。机を離れ見てみると、どうも棚にあった資料の置き方が悪かったのか、床に大量に散乱してしまっている。忌々しい、と私はそれらをねめつけた。
 その時、誰かの笑い声が背後から聞こえた。振り返る。
 いつ入ってきたのだろう。そこにいたのは、高砂君だった。

「ぷぷっ。阿美さん、だっさー」
「……何よ。見てるんなら、拾うの手伝いなさいよ」

 自分の醜態を見られて顔を赤くしない人間はそう滅多にいないだろう。私は赤面に加え頬を軽く膨らませながら高砂君を睨み、手は資料を拾う。はいはいと、私を笑ったことには何の謝罪もなく資料拾いには参加してくれる高砂君を若干こ憎たらしく思ったけれど、彼の笑顔は言っては悪いけど可愛いので、それに免じて許した。
 彼と私は同級生だが、彼は早生まれで小柄なこともあり、弟分としてクラスでも生徒会でもよく可愛がられている。この歳の男子だとそういう扱いは非常に不愉快なものなんじゃないのかという気もするけれど、高砂君は全然気にしておらず、逆にその状況が心地良いようだった。
 資料をまとめ、今度は落ちないように机の真ん中に置いておく。少し紙擦れの音がしただけで再び静寂が身をどっしりと乗り出してくる。私は一つあくびをして、高砂君がいるにも関わらずすたすたとさっきまでいた机に戻り、体の欲求に正直に従うことにした。
「ちょっと阿美さん。寝るわけ? 俺がいるのに」
「私は自分に素直なだけだよ」
「遊ぼうぜえ。外は雪だ」
 勿論、見ればわかる。窓は雪が降るだけの外の様子を相変わらず四角く切り取っているだけだ。駄々をこねる子供のように高砂君は言ったけれど、この寒い中安住の土地を捨ててわざわざ出かけるような神経をあいにく私は持ち合わせていない。
「眠いの……」
 さっそく私はまどろんできた。さっきまでは完全に覚醒してもう眠ることはないと思われたのに。
「雪遊びくらい、他の子としなさいよ。桜ちゃんとか、霞ちゃんとか……」
 桜、と何故か彼女の名前だけ高砂君は低く呟く。私だけでなく、高砂君とまで仲が悪かったり、陰険になりつつあるのだろうか。どうしてか、あまり快く思っていないような声色だった。
「やだよ。俺、阿美さんと遊びたいんだ」
 可愛いこと言ってくれるじゃない、と既にうつ伏せになっていた私は密かに笑った。
「寒いし眠いもん。やっぱり駄目」
 それに、と私は言葉を足す。
「もう少し経ったら、春だから……」
 その言い訳は彼の誘いを断るのに適していなかったけれど、その時の私としては十分過ぎるほど立派な宥め台詞だと思ったらしい。窓が無言で呈してくる外の様子から、春は大分遠いものだと簡単に判断できるのに、眠さと暖かさで少しぼけていた。
「春、ね……」
 高砂君は妙にしんみりした調子で呟き、溜息をついた。
 その溜息の熱さでたちまち溶けてしまう雪みたいな独白に、私の、降りかかっていた重い目蓋が動きを止めた。さっきまでと逆に、私の目は開いた。

「ねえ阿美さん。春ってさ、……どんなんだっけ」

 上体も起こした私はその質問の意図が掴めず首を傾げた。少し乱れた髪がはらりと落ちる。高砂君はそんな私に、食いついてきた。
「ねえ、春ってさ、どんな季節? どんな花が咲いて、どんな風が吹いて、空はどんななんだ?
 生き物はどんなものがいる? 食べ物は旨い?」
 彼の勢いで私は再び完全に覚醒せざるを得なかった。ついさっきの儚い溜息が出た口から、雰囲気が大分違う言葉の連射が出来るなんてとやや寝惚けた頭で感心する。……いや、そうではない。
「春くらい……わかるでしょ? 少なくとも、お互い十五年は生きているんだから。
 私なんか、苗字に春が入ってるよ、金春。金色の春なんて変だけど」
 誰それの名前でなくても、一年の内に必ず春は含まれている。春だけを無視して年を重ねることは難しい、特別な地域で無い限りまず無理なはず。だけど高砂君はなんてことないように首を振る。
「忘れた」
 呆気にとられた。そう言われればそうなのだろう。
「忘れたって……きゅ、急性記憶、なんたら障害、とか?」
 世界にはそういう厄介な障害があるといつかテレビで見た記憶がある。数分間しか記憶を保てないとか、ある時点からの記憶が無くなってしまうとか。
 高砂君が春を忘れたということを真に受けるならば、そういうものに当て嵌めるしか無い。勿論、与太話だと思ってはいる。だけどさっきと同じように高砂君は首を振った。
「そんなんじゃねーよ」
 小気味いい音を立てて、ソファに座った。
「もう何十年も、何百年も春を見ていないんだ。――本当さ」
 上目遣いでやんわりと訴える彼を頭ごなしに否定するのは何だかきまりが悪い。……本気で混乱してきた私は、彼に意見する言葉も忘れるほど怯んだ。むしろ「そうか」と納得してしまう。
 まるで、あらゆるとんでもないことが、夢の世界では当たり前に処理されるように。
 或いは私は起きてなどおらず、夢を見ているのかもしれない。
 だから、こう言った。
「じゃあ、春を見に行こう?」










 高砂君を図書室まで引っ張って、そのまま奥の方、暗がりの本棚の元まで行く。生徒会室ほど暖房の設備が良くなく、その上広い図書室の寒さは言うまでもない。
 そんな状態で私達が見に行くのは「春」なのが、ちゃんちゃらおかしい。けれど外で雪にまみれてうっかり風邪をひくよりも、高砂君の冗談に付き合う方が面白いし、もし彼の言うことが本当なら、私は黙っていられない。よくわからない使命感に燃えていた。
 本棚からとにかく目についたものを取り出し、カーペットの床に並べた。そういう仕様の床であることが、この寒い図書室の唯一の美点だろう。高砂君の目の前に広がるものは図鑑、写真集、画集、句集や歌集、その他、春に関する様々な資料だった。
「ほら、これがみんな「春」よ」
 何故か胸を張ってしまう。
「これが代表的な春の花、桜。やっぱり外せないよね。春で一番美しい花だよ。
 あ、でも桃もいいなあ。最近あんまり桃の木、って見かけないけど、三月三日、お雛様を飾る日は桃の節句だし。桃や桜に先駆けて咲くのは梅の花だよ。ぽつぽつっとね、小さいけど、一つ咲くとすごく嬉しいんだ。
 まだ雪が降ってる中で咲く梅もあるし。ああ、まだまだ寒いけど春が来るんだなって。そう思う一方で、もう冬も終わりなんだってちょっと寂しくもなったりするんだけど。

 樹木の花以外だったら畑に咲くような菜の花がいいんだよ。小さな花で他の豪華な花に比べたら取るに足らないんだけど、あの黄色の可愛さっていったらないよ。
 あ、小さいっていったら菫の花とかもあるか。沈丁花みたいなすごく香りのいい花とかもね。それとそうだな、あ、これこれ、つくし。結構にょきにょき生えてるんだよね。駐車場のコンクリートの隙間からとかさ。それ見るたび植物の力ってすごいなあって思う。つくしはね、食べられるんだよ? ま、私はまだ食べたこと無いんだけどさ。

 食べられるって言ったらやっぱり春の野菜や果物も瑞々しい物が多いっ! 特に果物だとイチゴだよ。この時期のスイーツ屋さんにはイチゴを使ったものが多くなってねー……。

 そういえば動物の話、してないね! ほら、さっきの梅の写真にこれ、止まってるのはウグイスだよ。ほーほけきょ、って鳴くんだ。すごい長閑で、それを耳にするとなんか何もかも放り出してのびのびしたいなーって思う。
 そういえばツバメも春の鳥だと思うな。あのね、すっごく速くって、古い家には巣が残ってて、毎年春になると子作りか何かかな? で、遠い国から戻ってくる、渡り鳥だよ。ええと、後は――」

 写真で伝えられないものがあって歯痒い。例えば春の風の気持ち良さ。日差しの良さ。新しい生活、新しい友達。何だか無性に浮き浮きしてしまう、あの感じ。
 目に見えるものだけでなく、その感じが少しでも高砂君に伝えたくて、いつもの会話の調子よりずっとずっとはしゃいで喋っていた。あんなに眠りの世界に行きたかったのに、こんなことになるなんて思ってもみなかった。なんだかひどく可笑しくって、私は笑っていた。
 高砂君はしかし――そんな私を見守るように、穏やかな横顔を湛えて、ずっとずっと、私の必死な紹介を聞いていてくれた。時々、相槌を打ってくれる。
「……高砂君?」
「あ――ごめん、阿美さん」
 なんだか、ぼうっとして、と彼は苦笑を浮かべて頭を掻く。私は感謝すべきなのにおどけて頬を膨らませてみせたら、彼はころころと笑った。
 よかった、と密に胸を撫で下ろす。今までずっと弟のように接してきた彼が、何だか随分と大人に見えたのが、少し羨ましかったのかもしれない。

 いつまでもそんな風に笑っていてくれたらいい。変わらず、あの生徒会室で。

「忘れていたな、本当に」
「何?」
「春って、こんなに美しいものなんだな」
 そう言って、彼は桜の写真をただじっと見つめる。

「好きだった。春がとても、愛しかった。
 だけど、どんなものかは、忘れていた」

 そう言い、写真を撫でる。
 春の色といっても過言ではない、桜の花の部分を。

「何十も、何百も繰り返したこの冬は、すっかり春の思い出を凍らせてしまったんだ。
 あいつを想う、心さえも」

 高砂君、と私はほとんど消え入るような声で呟いた。
 彼が何を言っているのかは全然わからなかったけれど、私はその彼の瞳を、私だけの心の宝箱に留めたかった。
 懐かしいものを見つけた瞳。愛しいその存在に、視力全てが奪われる。
 涙は、流さないけれど――。

「寒いけど、ついてきて」








 私は彼に、春を、本当に見せてあげたかった。
 だけど時間の流れには従わなければならない。今はどう見ても冬だ。まだまだ続く。今の状況を春にすることなど、人間では到底出来ない。

 出来るなら、それは神様だけだろう。

 彼は何百年もなんて言っていたけれど、どうせ嘘だ。私をからかっただけ。
 だけど何百年も、もし生きてきたなら。
 あと二か月くらい、どうってことはない。

 ――私達は、学校の傍を流れる川の河川敷まで来た。結局、外に出てしまったけれど、全然構わない。
「あっちに並んでいる木がね、桜」
 白く煙る空気の向こうにずらりと並ぶ禿げた木々に、雪は虚飾の花となって寄り添っている。
 桜の木は寒そうだけど、もう少しで春が来るからと耐えながらも、来たるその季節に胸をどきどきさせているかのように見えた。

 そう、私は耐えた後の桜の美しさを知っている。
 花を見て、無性にうれしくなることも、どんなことも楽しく思えることも、知っている。
 高砂君も、きっとわかる。

「春が来るとね、この川辺は、桜がこっちの端からうんと遠く、あっちの端まで目一杯に咲き乱れるの」

「今は、真っ白だけどな」

 呟く彼の息も私の息も白い。空も白く、地面も白い。何もかもが白で埋め尽くされた世界に私達はいた。

「じきに、桜色になるよ」

 色の付いているのは、私の頬と、彼の頬。そこだけ一足早く、ほんのり桜色だった。
「新しい生徒会の皆で、お花見に行こう。この川辺だけじゃないよ、学校にもあるし、公園にもあるし……。
 あ、学校って言えば、学校の桜並木から外れてる二本の桜があるんだ。
 それ、恋人桜っていってね、その桜のもとで告白して成就すると――」
 ふと私は違和感を覚えた。何がどう、という具体的なものでは無く漠然としたものだ。それを以て、隣を見る。
「……高砂君?」
 彼は、いない。
「高砂君?」
 傘を動かすと、天上から雪がひらりと舞い降りて、頬に落ちて融けた。
 傘をばさりと落としてしまった。



 真っ白な世界には、私しかいない。



 ――お前なら。
 空から、彼の声がする。

 ――お前なら、春を呼べる。取り戻せる。
 ――この閉ざされた世界を、どうにか出来る。

 私が空を見上げても、ただ真っ白で雪が降り続けているだけで、彼はいない。

 ――頼む。助けてやってくれ。あいつを。
 ――人間に恋をしてその身を捨てている、馬鹿なあいつを。
 ――助けてくれ。


 真っ白な空に彼が消えていった。そんな気がした。
 まるで雪がとけていくように。
 その白さが眩しくて、私はゆっくり、目を閉じた。




続く
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