「幸せを形で表すなら、僕は雪だと思うんだ」
 あれは、どこかからの帰り道だっただろうか。
 雪が降る中を、私と彼が、それぞれの傘を差して、同じような歩幅で歩いている。まだ相合傘が出来る程の仲ではなかった。私としては、是非ともやってみたかったのだけれど。
「ふわふわしていて、空から天の使いのように舞い降りてくるだろう?
 幸せってのは天からの贈り物みたいなものだし」
 背景も白く霞んでいる為、彼の言葉を包むその白い息は街並に馴染んでいく。それさえも彼は嬉しそう見ながら、話題の通り幸せそうに続けた。
「幸せは、ほら「しあわせ」で「し」が付いているだろう? だから色的には白だと思うし、ぴったりだよ。
 そして極めつけはさ、幸せはゆき、とも読める。雪だよ、まさに。古文の掛詞みたいだろう?」
 またこの人はいきなり何を言い出すのやら、と私はほぼ毎回のことだったけれど呆れていた。憤ることは無かったが、ただのこじつけじゃない、となんだか馬鹿らしかった。
「あのねえ、そんな風に言うけど、先輩」
 しばらく少し後ろの方を歩いていたので、私は小走りして彼の前に躍り出る。傘から積もった雪がはらりと落ちた。
「雪はただ降るのが綺麗なんじゃなくて、今私がこうやってコート着てマフラー巻いているみたいに、気温を奪うものじゃない。ひどい時には凍死してしまう雪山だってあるし、そうそう、山だったら雪崩にもなる。
 それでなくても、災害のもとになるでしょう? 山じゃなくて、街の方でも、雪があんまり降り過ぎると、交通機関にも影響が出るじゃない。ほら、最近遅刻する人多いでしょ、ここのところこんな雪ばっかりだし。
 それから、ふわふわしてるだけじゃなくてべたべたしてるのだって多いし、積もったら除雪しなくちゃいけないし」
 わかったわかった、と私の雪非難を苦笑し、何度か頷きながら宥めた。私はしぶしぶと言った様子で口を閉じるが、別に彼を本気でやり込めたかったわけではない。元来の性分というものなんだろう。要するに私はあまのじゃくだった。
 或いは、何も考えずに辺りにちらちら降ってくる雪にばかり意識を向けている彼が、単純に気に入らなかったのかもしれない。……やっぱり、今回は後者だろうか。
「じゃあ、君はどうなんだい?」
「何が?」
「幸せを表すものだよ」
 はあ? と私はやや眉を顰めてみせた。面食らうとはこのことだろう。
 幸せなんて形而上のもの、そもそも形に表せるわけがない。ちょっと考えれば常識レベルでわかることだ。
 それなのに暢気な彼はそのことに気付かず私の回答を待っている。それこそ幸せそうに。まったく、そんな顔をされたら反駁出来ないじゃない。
 第一、私は神だ。もうその力も失せつつあり、人間に非常に近しいものになっているとはいえ、ぎりぎりのところで惨めなようだがその認識はあった。それはおいておくとして、神にとっては、幸せ、幸福などといったものは、人間の欲と願望に塗れ手垢が付き尽されたそれはそれは美しい幻想にしか過ぎなかった。
 神が存在するにおいては、少なくともそんなもの必要がないのだ。
「ね、何なの?」
 若干俯いていた私は彼の声で顔を上げる。冷たい雪が降る中、それでも暖かそうににこにこしながら彼は一途に私の答えを待っていた。
 私は、少し体が震える。寒さで、ではない。心が震え、それが体に出た。私は彼のそういうところが愛しかった。

 幸せなんて、あえて形にする必要はない。

「……秘密」
「あ、逃げたね」
「逃げてなんかないわよ」
 唇を尖らせ頬を膨らまし、ぷりぷりしながら私が先頭を突っ切っていくと、ごめんごめんと彼は笑って横に並んだ。
 そして何事も無かったかのように学校へ向かって再び歩き始める。

 しばらくは、互いの呼吸の音だけが聞こえた。雪が地上に落ちる音でさえも拾えそうなくらい、二人の世界は静寂の中で完成されていた。そう私は思う。隣にいるだけで、彼の体温も伝わってきそうだった。実際そうだったんだろう。

(私にとっては)

 心で呟いた声でさえも、ここでは伝わってしまいそうだった。
 少し立ち止まった所為で、彼の背中が見えるようになる。どうしたの? と彼は何気なく振り返る。大柄な彼の姿を目に捉えて私は心中で呟いた。
 秘かにその言葉が届けばいいと思った。

(あなたの存在自体が、幸せだから)

 それだけで、いいのに。
 声に出していないはずなのに、胸が詰まりそうになった。
「何でもない、ちょっと、コートに雪がたくさん付いちゃっただけ」
 そう言いながら私は彼に追いついた。その時だった。
「あ、雪よりももっといいもの思いついた!」
 彼も私と同じで、同じことを考え続けていたらしい。
「何ですか。つまんないものだったら、先輩の分の肉まんも食べちゃうわよ」
 彼らしいマイペースさを愛しく思いながらも、ちょっとは隣の私のことを何か考えていてくれればよかったのに、という妬みもあったので、少しおどけて言ってみた。
 先輩はそれを意に介しない程、得意げな顔をしていた。
「雪ではないんだけど、雪と同じようにひらひら風に舞う、とっても美しいものだよ」
「何よそれ」
「君が一番知ってるものだと思うんだけどなあ」
 わかるかなあとからかう口調で言ってきたので何よ、と少し喧嘩腰な口ぶりになってしまった。気付けばもう雪は止んでいて、彼は傘を畳んでいた。
 私も畳もうと傘を降ろすと、もうそこは学校で、しかもいつのまにか校庭の方に入ってしまっていた。多分お互い傘を差していて話しながら進んでいたから、前後不覚でそうなったみたいだ。

 傘も畳まれ、雪も降り止んだその世界を見て、私は不覚にも驚いた。
 目を丸くし、言葉も出なかった。
 私達が立っている場所は、恋人桜のある場所だった。

 彼はくすぐったそうに微笑んで、そして言う。

「それはね、桜だよ。桜君」

 愛しい人は私の名を呼んで、ますます目を細めた。




 ああ、そうだったわね。
 春で、一番美しいとあなたが言った花だったわね。
 きっと、あなたの一番好きな花なのね。
 ……ねえ、神の自惚れを許してくれるかしら。
 あなたは、私のことを――




 目頭を熱くする余裕も、顔を赤らめる余裕すらなかったような気がする。
 ただ私は呆然として、彼を見つめ、そして二本の桜の木を見つめた。
 雪は降っていないけど、依然白くけぶったその世界で、桜の花が一斉に咲いていく。
 まるで、幸せを寿ぐように。












 そんな光景を、私は見た。
 あまりに出来た話過ぎる。いきなり桜の花がわあっと咲くわけはない。ひょっとしたら、あれは夢だったのかもしれないし、幻だったのかもしれない。
 そもそも私が彼に出逢えたこと自体が、すべて夢のようなものだったかもしれない。
 だけど、夢でも幻でも、もはやもう、構わない。



 私の幸せはあなたで、ここには無限に雪が降る。
 あなたの幸せは私で、幸せの形の雪が降る。



 無限の幸福が、ここにはある。





 だから早く、逢いにきて。
 独りは、寂しいから――


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