「ん……んんん」
 瞼を上げるのが辛い。それほど心地良い。私は暖かな生徒会室の事務専用机に突っ伏して、体を丸めて眠っていたのだが、どうもその幸せな時間は終わりみたいだ。どうしても私は覚醒してしまう。むっくりと、頭を起こした。髪の毛が顔に張り付いていて、顔は制服の皺がうつって跡になり、少し赤くなっていた。
「……」
 今度はさすがに、寝起きとは思えないくらいに意識ははっきりしていた。実際、寝ていたわけではないんだろう。私にあった何もかもが思い出せる。
 真っ白な世界に呑まれていく霞ちゃん、松尾さん、三輪先輩、賀茂先輩、高砂君。何度もあの時間と、そしてこの世界を繰り返していた彼等は、人間が遥か及ばない、神という存在。
 そんな彼等の願いを託された、この世界に存在しないはずの私。彼等の願い――彼等よりも貴い神である桜ちゃんを、この閉ざされた冬から救って欲しいということ。

 その桜ちゃんは、たった一人の人を待っている、恋に堕ちた神様。

「それにしても……」
 私が思わず一人ごちてしまったのは、あんまりにも静かだからだった。
 暖房機の音はする。時計の秒針の音も耳を澄ませば聞こえるかも知れない。そういった無機質な音はあるけれど、人が生きて出す音がしない。廊下を歩く音、走る音、喋り声が聞こえてこない。
 だけどよく振り返ってみたら、前回も前々回もさほどそういった音には注目しなかったし、生徒会室の周りはそんなに人が集まることもない特別教室が多いから、もともと人は少ない。だからおかしいことではないのかもしれないけど――今回に限って、私は妙に不安になった。部屋は暖かいのに、窓辺から漏れ出した雪の冷気が私の頬を撫でたように感じる。

 生徒会室を出る。廊下に張り詰めた、久しぶりに感じる冷たさを全身に染みさせながら、私は階段を下った。吹奏楽部の部活の音でもするかなと思ったけど、元気の良い楽器の音は聞こえてこない。
 誰かが階段を上ってくるだろうとも思ったけど、誰も上る気配はない。私の足音だけが唯一の音として、冷たい空気の中響く。
 それは目に見えるならば透き通っていて、空気の中を魚のように泳いだだろう。まるで誰もが寝静まった真夜中か、まだ明るいから、誰もがまだ夢の中の朝方のような気分になる。
 自分の教室に行ってみた。高砂君がいなくなった時は彼の教室に入ったが、私の教室にだって人はいるはずだ。だけど、がらんどうだった。荷物などは置いてあるし、黒板にもこれからの予定などが隅の方に書いてあるけど、入ることが禁止されているかのように、何もかもが全体的によそよそしい。
 そもそも、桜ちゃん達が繰り返してきたこの世界のこの教室は、一体もともと誰のものだったのだろう……誰か、桜ちゃん達みたいな神様が作った、架空の存在なんじゃないのか。
 この学校も、この教室も、ここにいた生徒達も、「無かった」ものなのでは――私が、まったくの計算外で生まれた存在であるのと同じくらいの信憑性で。
 そう考えると、冷たさが私をからかうように、だけど確実に怯えさせるように背筋をすうっと通った。途端に尿意が湧いてきて、私はお手洗いに向かう。その途中で他の教室も見てみたけど、どこも明かりはついておらず、無人だった。

 用をたして、手を洗う。外気と同様久しぶりに触れる水は私の手を凍らせるかのように冷たかった。お手洗いの個室は全てドアが開かれていた。鏡を覗いてみても、向こう側に人はいない。……だけど、もしいたら少し怖い。濡れた手の冷たさは恐怖を煽る。
 形に出来ない不安を胸に抱えながらも、私は他の教室を見て回る。音楽室や美術室や図書室、特別教室も全て回ったけど、髪の毛一本見当たらなかった。職員室に入っても、誰もいない。辺りを見て、呆けるようにはあ、と溜息をつく私に、不安は言葉になって迫ってきた。

 私以外、誰もいなくなってしまったのではないか。

 ろくに呼吸もせず押し黙っていた。気持ちの悪い唾を飲み込んだけど、体全体がたちまち不安や動揺に塗り固められてしまいそうだった。ううん、と私はそんな考えを振り払うように頭を振った。
 きょろきょろと辺りを眺め、私は電話機を見つける。受話器を掴んで耳にあてるが、ツーともカーとも音がしない。電話線が繋がってないのか、コンセントが挿しこまれていないのか、と私はコードを手繰ってみたが、どちらも繋がっている。だけど電話は、ボタンを押してもうんともすんとも言わない。全ての電話機がそうだった。
 なら、と私は偶然目に映ったラジオの電源を入れた。だけど、これもまた音がしない。ノイズすらしない。それなら、と次はその近くにあったパソコンの電源を入れた。だけど画面は真っ暗のままだった。よく見ると電源ランプがついていない――これもまた、コンセントもケーブルも繋がっているのに、だ。部屋の電気はついているから、電気は通っているはずなのに……と私は悩ましげに天井を仰いだ。知らず、溜息が洩れる。
 とにかく私は、この学校でおそらく――独りになってしまったのだ。
(こんなことをしているのは……桜ちゃん?)
 霞ちゃんがいなくなった今、神様グループで残っているのは、この長い冬を引き起こした当事者である桜ちゃんしかいないのだから、多分そうなのだろう。その桜ちゃんは今、どこにいるのだろうか。

 もしかしたら生徒会室に戻っているのかもしれない。今までずっと私は生徒会室にいて、神様達とは生徒会室で過ごしてきたのだから、と生徒会室へ急ぎ、いくらか期待を込めてドアを引いたが――私の視界に映るのは、雪の降る景色を四角く切り取る窓辺や、机や椅子や、散乱した資料や、運転が止まってしまったストーブといった、もう私にはすっかりお馴染みの無生物だった。確認した途端に、いろいろ学校中を駆け回った所為で溜まった疲労が私の肩に降りた。
 とりあえず、ソファに腰かける。何とはなしに膝を机にし頬杖をついてみた。静寂に包まれている今、思い出すのは、高砂君や賀茂先輩達、霞ちゃん達の姿や言動だった。
 日常に生きていたあまりにも人間過ぎた彼等の姿と、彼等の、神々しい白に包まれる最後とを、頭の中で行ったり来たりする。神様のうち誰かが残っていれば何かが出来ただろうな、少なくても何か手段は見つけられただろうな……私は弱気にそう思った。
「だって、どうしろっていうのよ……」
 弱気や不安は、ついつい口から出てしまうものだ。
「……異分子かあ」
 髪の毛をいじりながら、溜息交じりに私は零す。霞ちゃんは、私がそれであること自体が切り札だ、というようなことを言っていたけれど、戸惑わずにはいられない。

 確かに私は異分子かもしれないが、やっぱり、どう贔屓目に見たってただの人間だ。こんな繰り返す世界にいることすら知らなかった、神の御手の上で遊ばされていた一般人に過ぎない。
 物語のヒーローやヒロインみたいに何か修行をしたり特別な力があったり、聖人伝説に出てくる人や偉いお坊さんのように特別功徳を積んでいるわけでもなかった。だけれど、と私は髪から手を離す。
 桜ちゃんが恋をしたというその人――宝生観世先輩も、きっとそんな、普通の人だったんだろう。私は遠い遠い昔に現れた、異分子の先輩を、神に愛された人を想う。そして、恋をしている桜ちゃんも思い浮かべる。
 まだ踏み入ったことのない、手にしたこともない、神話のように煌めいて、だけどおぼろげで切なくてどこか不思議な世界。……恋をすると、世界は変わるらしい。一体、どんなものになるんだろう。
 桜ちゃんの世界も、変わっただろうか。何度も何度も世界を繰り返して、飽きが来ていたかもしれない彼女にとって、突然現れた先輩はどんな存在だったんだろう? 私は膝を抱えてあれこれ夢想してみた。
 一目惚れだったのかな。それとも鬱陶しい人だと思ったかな? でも、きっと最初にどう思っていたかなんて関係ないんだろうな。たとえその存在が最初は、映像の乱れや、音楽の雑音や、ページの乱丁や汚れや、夢にも過ぎない、単なる幻のようなものという認識であったとしても――そこで私は思う。
(観世先輩は……)
 私は窓辺を見つめた。雪はゆっくりと、しかし世界を覆い尽くさんばかりの勢いを隠しながら白く流れている。その先輩が立っていたという、場所に視線がぼんやり飛ぶ。
(この世界にとって、いらない人だったのかな)
 そういったものである存在は、観世先輩や私以外にもいたらしい。その人達のことを私は知るすべがないが、過去にいたその人達や私のことはともかく、観世先輩のことは……。
 いや、深く考える必要なんかない。
 私は一人で大きく頭を振った。
「……そんなことない。絶対にない」
 いらない存在であるわけがない。
 桜ちゃんは、たった一人、その人に恋をした。神であることを捨てて、長い長い冬に閉じこもって、独りになってでも、一途に先輩を待つくらい。
 他の誰かでは駄目だった。観世先輩じゃないと意味がなかった。
 その「好き」という切なく熱い気持ちが、触れたこともないのに――時や空間を超えて私を刺激した。

「いらない人なわけ、ない!」

 声を張り上げて私は言い切ると同時に立ち上がった。
 そしてこう考えるのは短絡的だけど、考えずにはいられない。弱気で不安げで何かやる前からびくびくしているのは、私らしくない。私は鼻息を荒くした。
 私にだって、きっと何か意味があるはずだ。

「何百もの冬の果てに生まれた私にしか出来ない何かが、きっとあるはずなんだ!」

 うん、と自分で大きく頷いた。
 視界を元の位置に戻すと、今まで通りに散乱した資料が一際目立った。私は元通りにしようとまとめ始めた。そう、先輩がいて、桜ちゃんがいて、高砂君達がいて……何もかも元通りになればいい。そうしたら今度は私がいなくなってしまうかもしれないけど――今は深いことは考えないでおこう。
 資料を棚に戻し、何かヒントを得られればいいと私は窓辺に向かう。霞ちゃんが立っていた辺り、よく先輩が立っていたという辺り。先輩はこの窓辺から何を見ていたのかと、真っ白い向こう側を見つめる。暖房機があるといっても、これだけ外に近いと寒い。
 先輩は、この寒い窓辺から雪が主役の世界を見て、高砂君のように春を待っていたのかもしれない。この冬を越えて、誰かとお花見に行きたかったのかも知れない。
 ふと、私は思った。この舞い散る雪は、よく見ると桜の花びらが風に舞い散っているようだった。冬の象徴である雪と、春の象徴である桜の花が似ているなんて、不思議なこともあるものだ。
 背景は白く、また曇ってもいるので私の顔は映らない。ただただ、向こう側が真っ白に煙っているだけだ。下手な闇より、なおたちが悪いかもしれない。ちょっと暗くなっただけじゃ、闇に冒されているということがわからない。
「……いけない、せっかく頑張ろうと思ったのに、また後ろ向きに考えちゃってる気がする」
 頭を振る代わりにきゅきゅと窓を拭いた。その部分だけ若干鮮明になって、校庭や学校の傍を流れる川、街並みが見える。
 そうだ、ここに閉じこもってちゃいけない。桜ちゃんを探さないと――そう思いながら視界をやや下に移動させた時に、目を疑う。

 小さな人影が、視界を掠めた。
 二本の木の下、誰かを待つように、傘もささずにその子はいた。

(まさか……)
 ここにきて、まさかなんて言っていられる状況じゃない。私は条件反射をする如く生徒会室を飛び出した。襲ってくる寒さも気にならない。

 向かう先は校庭の恋人桜。
 そこに桜ちゃんはいる。




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