「ん……んんん」
 目蓋を上げるのが辛い。それほど心地良い。私は暖かな生徒会室の事務専用机に突っ伏して、体を丸めて眠っていたのだが、どうもその幸せな時間は終わりみたいだ。どうしても私は覚醒してしまう。むっくりと、頭を起こした。髪の毛が顔に張り付いていて、顔は制服の皺がうつって跡になり、少し赤くなっていた。
「何の夢見てたんだろ……まあ、いいや」
 この部屋は暖かいため、授業疲れがたまっているとついついうたた寝をしてしまう。だるい体をしゃきっとさせ、すっきり目を醒まさんと窓を見る。窓の向こうには、はらはらと雪が舞っていた。
 昨日から雪はずっと降り続いていた。冬の風に舞う雪の花びらは、無彩色の風景の壁に模様をつけている。暖かいこの部屋から見ると雪はまるで観賞物に過ぎず、外に出ればたちまち私達を弱らせる冷たい障害でしか無いのに、室内ではまるで暖を司る妖精さながらの美しさだった。そして雪は、全ての音を柔らかくくるんでいくように外のざわめきを伝えない。静かだった。
 私のいる生徒会室もそれに輪をかけて静かだった。勿論、暖房やヒーターの稼働する音があるが、逆にそれが静けさを引き立てている。それもあるだろうけど、ついさっきまでくだらない話をしてそれなりに盛り上がっていた所為もあるかもしれない――様々な要素が結果として中心に鎮座ましましている静寂を逆に目立たせていた。そしてその静けさは眠気とどうも仲良しらしく、私をうたた寝の世界へいつも以上に誘った、というわけだった。

「あーみちゃん」
「え? ……え? きゃあああっ!」

 ほのかに残る眠気は瞬時に吹き飛んだ。私の隣に三輪先輩がいて、私の顔を覗き込んでいた。お互いの匂いが十分にわかるほど近い距離だったので、眠気と共に私は身も遠ざける。
 何とも心臓に悪い。先輩は小悪魔のように口の端を上げながらウィンクを一つ飛ばした。ころころ変わる先輩の髪は、今日はピンク色だった。チャーミングなその色で、余計小悪魔という感じがする。
「び、びっくりしたあ……」
「あっはは。気持ち良さそうに寝てるもんだからねえ。
 死角に隠れてさ、つい観察しちゃったよ。あー寝顔可愛かったあ」
「もう、ふざけないでください!」
「よだれの後ついてるよん」
 嘘、と声高に叫び口を拭う。ああ、恥ずかしい。いつものことだけど、されるがままのペースにいるのは本当にこそばゆい。
 そう思っているとは露知らず、いや、知っていてからかっているのかも知れないが、彼はくすくす笑いながらくるくると舞を舞うように回り出した。
「まったく……もう少し落ち着きをもって下さいよ。
 賀茂先輩みたいに……同じクラスで、同じ役職なんですから、ってあんまり関係ないか……あれ?」
 そこで私は重要なことに気付いた。
 賀茂先輩がここにいたはずなのだけど、どこに行ったのだろう?
 先輩は真っ白な世界に消えていった、という記憶があるが、その終わりや先輩が語った内容の非現実さから、さっきまで見ていた夢だよね? と私は自己に確認する。高砂君が消えたのも夢に違いない。
 しかしそう思う反面、それが夢ではないという気も確かにあった。全て確かに体験したことだと体が訴えている。だけどそんなこと言いだしたら、夢だって「体験」なのだから――
 まあ、それはいいや、と問題をあっさり片付けた私はステップを踏んでいる先輩に訊く。
「先輩、ここに賀茂先輩いたはずですけど」
 ステップを踏むのを止め、三輪先輩は私の顔をじっとうちまもりながら怪訝な顔をして首を捻る。その動作がほんの少しだけ芝居かかっていて、そのことが妙に私の心に引っかかった。
「賀茂? 誰だい、そのセンパイ」
 え、と口からものを零すように私は呆然と呟いた。その時、誰かがこちらへ近づいてくる気配がした。どたどたと、荒々しい足音だった。寒いからか空気が澄んでいて音が良く通るのだろう、少し耳を澄ませば聞こえる。それはいいとして、誰だろう、と思った時に、解答はドアを勢いよく引いて現れた。
 生徒会長の松尾さんだ。
「朧! 今――」
 言いながら入ってきたが、その勢いは私を見てぴたりと止まった。おおっと、と何かに躓きかけたように若干後ずさる松尾さんのその表情は、動揺の色が見て取れた。そう観察する一方、私も表には出していないが動揺していた。
 こんなことを、私は前にも体験したことがある。デジャブのような、結局は脳によって引き起こされるような現象じゃない、と私は断言できる。
 確かにここ、生徒会室であったのだ。松尾さんがどたどたと入り込んで、私を見て驚いた。ついさっき、私が、賀茂先輩に高砂君の行方を尋ねた時――。
「あ、阿美ちゃんか。お先にどうぞ」
 そうして質問を譲るのも同じタイミングだった。彼の顔をちらりとみやる。懸命に隠そうとしているが、彼は明らかに、何かに気を弱まらせている。それは私が今体験していることと関連があるの? そう自分に問いかけてみても、何の妙案も浮かばない。とりあえず、賀茂先輩、高砂君の行方――いや、「存在」が気になる。
「三輪先輩。賀茂先輩と、高砂君――」
「あれー、松尾さんそこにいたの」
 私の静かで厳しい緊張を、少し緩ませる声が扉の方から聞こえた。
 振り向くと、ニット帽を被った霞ちゃん――私と同じく生徒会書紀の、葛城霞ちゃん――がうう、寒い寒いと身を竦ませながら引き戸を閉めていた。そして暖かさに身を馴染ませようと私達の所へ軽くスキップをしながらやってくる。
 さっきは霞ちゃんはやってこなかったどころか、出会っていない。高砂君の時もそうだ。何だか随分懐かしさを感じて、私は手と手を擦り合わせる霞ちゃんをまじまじと見た。視線に気付いてか、彼女は掛けている眼鏡をくいっと可愛らしい動作で直した。帽子は外さない。
「どったの? あみちゃん」
「あ、あのね霞ちゃん。賀茂先輩と、高砂君知らない?」
 んーと少しハミングするかのように唸ってから何度か首を捻る霞ちゃん。そんな彼女をやけに危なっかしいものを見るような目つきで見ているのは松尾さんで、三輪先輩は退屈そうに髪の毛をいじっていた。
「誰? その人? カモって、鳥?」
 いくらフリーダムなこの生徒会でも動物は役員になれないよ、と霞ちゃんはけらけら笑った。
「そんな……会計の高砂遊糸君と、副会長の賀茂仲春先輩、本当に覚えがないの?
 みんなの弟みたいだった高砂君と、いつも本ばかり読んで、無口だったけど仕事はちゃんとこなしてる賀茂先輩だよ?」
「覚えがないって、知らないものはしょうがないよ、あみちゃん。それに、会計は桜と江口ちゃん、二人とも女子で、副会長は安宅君じゃん。安宅君は本とか読まないスポーツマンで部活で何個か賞とってるような人なんだよ」
 二階の職員室前の廊下に、トロフィーとか飾ってあるじゃん、とさも何事もないように二人の存在を否定した。その顔には当然のことながら悲しみも寂しさも困惑も浮き出ていない。それよりさあ、と霞ちゃんは三輪先輩達の方を向く。
「松尾さんから聞きました? 新入生歓迎イベント、今年早めにやるらしくって」
「……あ、ああ、ああ、そう、それを言おうと思って、走ってきたんだ」
「まったく、生徒会長が廊下走っちゃ駄目でしょお。
 それであれでしょ? どうせ慌て過ぎて、何言いたいか忘れてたんじゃないですか?」
 図星だったのか、松尾さんはすいません、と肩を竦めた。これでも生徒会長なのに、という悲哀が見て取れたけど、やっぱり面白かったので思わず吹き出してしまった。
 だけどそんな馬鹿げた理由が、私の記憶に残る彼の困惑の表情に、容易く結び付くとは思えなかった。
 いよいよこの事態について松尾さんの疑いを深めた時、ぴーぽ、ぴーぽ、と何かの音が鳴る。何だろうと音の方を振り向くと、ストーブの時間切れをお知らせする音だった。十分暖まっているが、稼働を続けないと急に寒くなってしまう。資源の無駄とはわかっていながら防衛本能には逆らえないので、私は延長ボタンを押しに行く。
 押した途端に気付く。これも、さっきあったことだ。家でも押してるから、とか、そんなレベルのデジャブではない。暖かいはずなのに鳥肌が立つ。身を走る恐怖に似たそれに驚いて、私はストーブの前で立ち尽くしてしまった。
「じゃ、私はこれで。松尾さんも、帰るんじゃないの?」
「あ……うん、そうだね。雪もひどいし……」
 松尾さん、と呼びかけるが、彼は急いで机に置いておいた鞄を持ち部屋を後にした。聞こえなかったということはないだろう。明らかな無視の意図が私に見え見えだった。
 想像で拵えた彼の行方をぼんやり捉えるが、そうすることに何の意味があるだろう。いつのまにか隣にいた霞ちゃんはどうしたんだろうね? と苦笑した。
「じゃあ、また今度、肉まんでも奢るから。……ごめんね」
「? 私、何かしたっけ?」
「あ……」
 霞ちゃんから余裕の欠片が一つ、落ちたように見えた。口調もどこか沈みがちだったので、私は霞ちゃんまで何かを隠しているんじゃないかとやや訝しむ。本当は友達に対してそんな疑いをかけたくはないのだけど……。
「ほら、さ。私、今日用事あって一緒に帰れないからさ! あ、バス来るしもう行かなきゃ、じゃあね!」
 言葉が終わるのと、彼女がこの部屋から姿を消したのは同時だった。そして暖かいのに、どこか冷たく孤立した部屋に残されたのは私と三輪先輩だけになる。
 先輩は何かのメロディをハミングで奏でながら、随分寛いでいた。自分と彼とを比較して、置かれた状況の温度差にただ唖然とする。
 私は、生徒会室にあるPTAの名簿を見ることにした。これなら、全校生徒の名前がすぐにわかる。
「もう僕に訊かなくていいの? そのナントカ君とナントカ先輩について」
「どうせ、知らないんでしょう? いいんです」
 認めるのが辛かった。自分の言葉の冷たさを恨んだ。本当はもっと追及すれば、どうなるかわからないのに、諦めてしまった自分が悲しかった。
 どのクラスにも、高砂遊糸と賀茂仲春の名前は見当たらなかった。賀茂先輩が一杯本を仕舞い込んでいた棚も開けたけれど、いくつかの資料と何冊かのファイルが無気力そうに並べられているだけだった。
 資料、と思い、ピンときたまさにその時に何かがどさどさっと落下した音がした。そんなに驚きはしなかった。「そうなる」と思ったからだ。音の方を向く。どうも棚にあった資料の置き方が悪かったのか、床に大量に散乱してしまっている。
 これで、三回目だ。あまりに奇妙な繰り返しに私はただ突っ立って散らかった資料を眺めた。
「拾わないの?」
 暗に拾えと命令しているようなものだった。先輩は何かを知っているに違いない、意地悪そうな微笑みを浮かべたまま、私の動向を伺っているようで、何か無性に腹が立ってきた。先輩の胸を叩いて、何でどうしてと泣き叫びたかった。松尾さんと霞ちゃんが何か知っているなら、私がどうなってもいいから教えて欲しかった。
 誰かがいなくなったことが平然とまかり通り、同じことが繰り返されるこんな変な世界を、本心からどうにかしたかった。
 少し落ち着こうと、私は屈み資料を集めた。そして思い至らなかったのが不思議なのだが、桜ちゃんはどこに行ったのだろう? と疑問が浮かぶ。
 桜ちゃんにも高砂君と賀茂先輩のことを訊きたい。どうせ駄目かも知れないが、何か打開策は出てくるかもしれない。だけど、肝心の桜ちゃんはここにはいない。賀茂先輩がいた時もいなかったし、高砂君といた時もいなかった。桜ちゃん一人の為に校内放送を使うのもどうかと思うし、さっさと帰宅してしまったかもしれない、などと思考を巡らせながら、私は集めた資料を机に置いた。

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