その日彼は読書をしていた。肘をだらりと伸ばし、顎を机につけ、目が悪くなるような姿勢をとりながらも、なかなか真剣そうに読んでいた。私は何の気なしに声をかける。
「何読んでるの?」
 うわあと、彼は驚く。声をかけたこちらが驚いてしまう程大袈裟な声に私は顰め面を浮かべた。そこまで驚く必要はないだろう。何だ、君かと、今私の存在に気付いたような素振りも地味に腹が立つ。
「これ? 最近出た新刊だよ」
 頬をほんのり紅色に染めた彼は喜々として表紙を私に向ける。厚みはあるが、存外軽そうな内容の装丁だった。そういえば他の生徒も読んでいたような気がする。
 面白いよ、と彼は笑う。そのまま目から星でも飛ばしそうな勢いで君も読んでみなさい、是非是非、と迫る。相変わらずの厚かましさだ。うんざりする。だが最初に出逢った時のように、またまたここに私の仲間はいないのだった。生徒会室には私と彼。外の雪景色も消えることはない。
「本なんて読んで、何が楽しいのよ……」
 聞こえないように小さく呟いたのは、読書を再開した彼をつまらないことで怒らせたくないからだった。対処するのが面倒臭い。

 私達のような存在にとって、この世界に付随する映画やテレビ番組、音楽、漫画、書籍といった娯楽はまさに付属品中の付属品に過ぎず、意味も価値もない無駄なものでしか無かった。
 だが人間の生活を長い間繰り返していくにつれ、その娯楽要素を楽しむまで衰えた仲間もいる。だが私は違う。そのようなものにうつつを抜かしたことはない。……頂点に立つ者としての矜持だろうか。そんな矜持こそ、よく考えたら人間臭い。まあ、それは置いておくとして、ただ私にはとにかく必要がない。純粋にそれだけだ。

 ところがこの彼ときたら、私の正体を知らないから仕方がないけれど、頻りにそういう話ばかりふってくる。昨日のテレビがどうの、ドラマがどうの、ラジオがどうの、新曲がどうの、毎日違う話題をふれるのには呆れを通り越して感心してしまう。そう、いつもだったら、そんな無駄話に私は呆れつつも付き合っている、という状況にあるのに、彼は黙々と読書を楽しんでいた。
 何故今日に限って、本ばっかりなのだ。外が変わらず雪景色で寒いから、部屋に閉じこもっているというのもあるだろうけど、少しは私といつものように話せばいいものを。あの楽しんでいる顔がとても憎たらしい。
 ちょっとした出来心が芽生え、私はすぐに実践した。
「ねえ先輩」
 何だい? と警戒もなしにこちらを向いた。愚か過ぎる。私に出来た悪戯心とは、その物語の結末を全て喋ってしまうことだった。抽象的ではなく、私自身が執筆したかのようにありありと、克明に。どこで何が起きて誰がどんな台詞を言うのか、何行目にどう書かれているのか、そこを書くのにどういう想いでいたか。

 私にはそれが解る。

「わ、わ、何てことを!」
 思った以上に狼狽する彼を見ていると胸がすく思いがした。だけどすぐに後悔する。
「君……ちょっと、本気で怒ってるんだぞ!」
 ばん、と窘めるように彼は机にその本を叩きつける。私はその震動が伝わったかのように身を震わせた。彼と私は見つめ合う。
 固い顔、凍ったような顔をしているのに、眉間の辺りはまるで炎でも踊っているかのようだ。その燃える視線に、私は射すくめられているのと同じ状況にある。今ならきっと、彼は私をどうにでもしてしまえるかもわからない。少し、恐ろしかった。

 私がそんな状況にいて、いいはずがない。だって私は――なのだから。

 ともかく私も睨みかえそうとした。私が事を起こしてしまったのだから仕方がない。きちんと決着をつけなければならない。
 私達の仲が険悪になっても、構わない。もう、自棄だ。私はそういう身分だ。
 ところが彼は視線を緩め、炎を消し、かわりにしょげ返る。大切そうに本を持ち直す。何だろうと、私は拍子抜けしつつ思う。
「想像しながら読むのが、楽しいんだよ。……結末だけ知ってればいい派の君にはわからないだろうけどね」
 とんとん、と本の端で机を叩く。その音は妙に寂しい。彼の後ろに広がる雪景色と相まって、急激に孤独を彼に滲ませた。
 想像するという楽しみの剥奪と、結末の突然の訪れが、いつもうるさくて元気の良過ぎる彼にここまで陰を落とすことになるとは、正直思ってもいなかった。……確かに、私は彼に無性に苛立って、何に対してかわからない仕返しをするような気分であんなことをしたのだが、こんな結果を望んでいたわけではない。
 じゃあ何を望んでいたのかと訊かれると、ただ、私と話をして欲しかっただけ、というつまらないことだった。

 なら私が、その本の話をするようにすればよかったのに。

「……ごめんなさい」
 彼と自分自身とに、頭を下げる。恐る恐る上目遣いで彼を伺うと、困ったような笑いを浮かべていいよいいよ、と手を振る。全く、と私は目を伏せる。
 もっと怒ってもいいのに、馬鹿な人間だ。
 彼は座り直し、意外なことに読書を再開した。
「もう結末、言っちゃったわよ」
 そこに至る経過も詳しく語った。ん? と彼は怒ったことも忘れたようにこちらを向くが、気さくに笑って、当たり前のように言う。
「本は自分で読まなくちゃ、本当に楽しめないんだよ」
 本だけにね、とつまらない洒落も付け加える。そして、活字っていうのはそういうものさ、と彼は口笛でも吹くように言った。そういうものか、と私は黙らざるを得ない。本なんて滅多に読まないし、最後に読んだのはいつだったか、忘れてしまった。
 不意に、彼はそれと、とさっきの言葉に何かを言い足すように言った。
「もしかしたら君の言っていたような結末にはなっていないかもしれない。
 もっとすごい結末になっていたりするかもしれないじゃないか!」
 眉を曲げ、私は呆れた。ものの数分でいつもの彼になっている。
「もう書かれているのよ? 決まっているのよ?」
 いやいや、と勿体ぶるように手をふる。

「未来はどうなるかわからないからね」

 その答えに私はまた少し黙る。そして何も言い返せず、ただふうんと相槌を打つしか無かったけれど、そう、妙に心に残る言葉だと思った。
 どうなるかわからない。私のような存在と彼のような異分子がこうやって打ち解けていくことも、確かに予期していなかった。今でもそう、つくづく思う。
 外の雪は相変わらず降り続き、白に白を重ねては清らかな雫に姿を変えていく。私もどうやら、いろいろと変わってきたようだ。――本当は、あまり堕落したくはない。

 けれど、もっと彼と近付きたいと、素直に思えた。

 読書する彼の傍に立つ。暖かい。
「ねえ」
「んん?」
「それ、私まだ読んでないの。
 読み終わったら、貸してくれる?」


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