喜備はとにかく亮を追い、走って走って、もう足がくたくたになるところまで来たが、周囲に亮らしき人影は見えなかった。昨日と同じように呼吸を乱す。時々咳き込んで喉が余計に痛い。
 落ち着いて、周りを見てみた。公園が前方に見える。ブランコ、滑り台、ジャングルジムなど、遊具が一通り揃えられていた。それを見てはっと喜備はもう一度周りをよく見た。
 この近くに、小学校があるかも知れない。
 とにかく目についた道を歩いてみる。すると運が良かったのか――果たして小学校は見えた。まだ昼休みのようで、甲高い元気な声があちらこちらから聞こえてくる。一番良く聞こえるのは、運動場だった。
 まさに子供は風の子と言うに相応しいであろう光景が、その運動場だった。頬を真っ赤に染め、軽装で、びゅんびゅん走り回ったり、遊具で遊んだりしていて、見ているだけでも心が解放されたようだった。気持ちがすっと晴れ晴れとしたが、亮を見つけなければならない。勿論、ここに亮がいるとは限らないが。
 しかし――意外にも亮は、いた。見つけてくれと言わんばかりに、五メートルも離れていない所に突っ立っていた。彼が見ているものは、運動場の半分を使って行われているスポーツ――野球のようだった。
「亮くん……」
 少し視線をこちらに投げかけるだけで、すぐに野球の方に目を戻した。
 ころころと、取り損ねたボールが亮の足元に転がってきた。亮はつまらなさそうにそれを見やって、素直に投げ返した。ボールを受け取った少年は二人を一瞬怪訝そうに見ただけでゲームに戻っていく。
 素直に投げ返したのも、意外だった。短い付き合いだが、彼が人をからかう為あさっての方向に飛ばすくらいは余裕でするような少年であることはわかっていた。二人はしばらく、寒くて荒い風に背中を預けた。やがて亮が喜備のもとに少し近づいた。それを受けて、喜備も近づく。大体、言葉くらいは十分交わせる間隔になった。
「ホントはさ」
 亮の声が、風がおさまった中で聞こえる。
「俺、野球よりもサッカーが好きなんだ」
「そうなんだ」
 亮はそれだけで口を噤んだ。小学校の伸びやかなチャイムが鳴った。児童達はめいめい自分達の教室へ帰っていく。誰が一番に着くか競争を始めている一団もいる。喜備はほんの少し口角を上げたが、亮を想うと笑えなかった。
「ここ、亮くんの学校?」
「そう」
「公立?」
「そう」
「意外だなー。てっきり、私立だと思ってた」
「だってメンドくせえじゃん、試験とか……。父さんも母さんも俺の好きにしていいって言ったから、好きにさせてもらった」
 視線を自分の足元に落としながら、亮は爪先で土いじりをしている。
 亮は少なくとも高校生か、それ以上の知能を持つことは、昨日知った。彼にとって小学校の選抜試験や授業など、つまらなくて眠くなるというレベルではない。笑ってしまうものか、馬鹿にするものか、どちらにしろ真剣に取り合わない、いや取り合えないものでしかない。
「ふうん。いいご両親だね」
「滅多に会わねえけど。……家には姉ちゃんも兄ちゃんもいるし……」
「きょうだいがいるんだ。いいな、私一人っ子だから」
「滅多に会わねえけど」
「…………」
 滅多に会わないとはつまり、亮の家には両親も、姉も兄もいないということになる。家には孤独な天才児がいるだけということだ。
 誰もいない家――喜備は正直ぞっとした。喜備の母も働きに出ている曜日があるため、時には帰宅時一人の時もある。しかし家族団らんの時間は、夜八時を過ぎれば必ずある。テレビを見ながら夕食を囲むのは毎日のことだ。喜備は未だ、家庭内の孤独について理解が不足していた。
 孤独だから――こうして、学校にも行かずふらふら出歩いている?
「じゃーな」
 気づくと亮は手をヒラヒラ振りながらもう喜備に背を向けていた。
「今まで付き合ってくれて、ありがとな。俺、もう行くわ」
「! 待って!」
 喜備は亮の手を掴む。小さな掌は冷たかった。亮は抵抗する素振りを見せなかった。相変わらず、うつむいたままではあったが。
「あのね……私、大学合格したんだ」
「聞いてた」
「だからさ、合格祝いしに行くんだ」
「行けばいいじゃん」
「亮くんも一緒に。ね」
 手を掴んだまま亮の前面に周りこみ、屈んで、目を合わせ、笑った。亮は不機嫌そうに唇を尖らせていた。そこに寂しさや絶望や諦めの色がなかったと言えば嘘になる。しかしそれを、今は無視する。そんな顔の亮を、喜備は決して認めたくなかった。
 亮には無邪気に、悪戯っぽく、時にクールに、笑っていてほしい。

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