喜備、喜備と自分を呼ぶ悲痛な声がした。事故にでもあったっけ? と思い出せば、自分が自分で無かったことを、ちゃんと脳は差し出してくれる。全く仕方無いな、とでも言うように。
 ああ、そうだっけ。喜備はぼんやり思うがその反面、反対の意思は強く訴える。


 あんなの、あんな私の姿、幻だ。


 だからみんな心配しなくていい。あんな幻像に惑わされないで。
 重い眠りから覚めるように、瞼は上げづらかった。
「……喜備」
 真っ先に視界に飛び込んできたのは亮で、少し目元が腫れていた。心配になったが、自分を思っていてくれたのかと微笑がこみ上げる。見ると後ろの美羽もらしくなく顔を歪ませ憂いているようで、感情を表に出しやすい幹飛は尚更だった。
「喜備? 喜備だよね? いつもの喜備だよね?」
「大丈夫……私だよ」
 どれくらい床に仰向けに倒れていたか喜備にはわからないが、少し痛む背中を起こした。
 正常な喜備が戻ってきたとはいえ、亮はさすがに怯えた目で喜備を見ていた。背を向け、しかし逃げはしなかった。申し訳なく喜備が首をしならせていると、こっち、と声がする。顔をあげると椅子が四脚のテーブルの傍に亮が立っていた。座れということだろう。
 テーブルもこの屋敷のものなのでやはり、素材、材質、つやなど触れるのも恐縮な一級品だった。椅子も然りで、持ち主である亮が座り、三人が座ると素直に亮が頭を下げた。
「ごめん……」
 ため息をついたのは幹飛だった。
「ごめんで済むなら、喜備も壊れなかった!」
「子供だから、許してあげたい気持ちもあるけど、でも……」
「美羽、もっと直接ばしっと言わなくちゃわかんないわよ!」
 こんな――と、何かを続けようとして幹飛は口を噤んだ。亮も喜備も、そろってしょんぼりとうつむいている。それだけで幹飛の戦意を削ぐには十分だった。もとより――幹飛もあまり激しくわめきちらしたくなかった。あの喜備の声は、もう聞きたくない。そして幹飛もしょんぼりと頭を下げた。
「俺は――」
 沈黙が降臨してしばらくした頃、亮はおもむろに口を開いた。
「俺は、多分生まれた頃から世界がすべて、見えていた。明るくて、どの色も欠けてない世界。あとはそれを構築する道具を取得するだけだった。言語の取得だ」
 その話は、水が穏やかに流れるように、雲の隙間から光が射すように、続けられた。

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