天気は少しの晴れ間を見せてもまたすぐに調子を崩していった。雨は降らなくとも、何となくどんよりとした曇り空を見せていて、梅雨に入ったのだなあと街を行く人は足を止める度思うだろう。大学の講義室も、濡れた傘や衣服の為に全体的に湿り気を増し、また授業に慣れてきたということもあってか、自主休講をする学生も増えてきた。そんなことは出来ない至って真面目な学生である喜備だが、頭では講義のことにではなく、別のことに意識が行っていた。
 喜備に眠るもう一人の喜備は、先日あれだけの恐怖、危機感を喜備に与えたにも関わらず最初からその存在が無かったかのように、確かな声――姿を現すことは無かった。水面、鏡、その他自分の顔が反射するものを見かければ、喜備はもしかして、と微かな期待を寄せた。それは未だに、少しの恐怖と緊張に包まれたものではあったがしかし、彼女が出現することはなかった。少なからず、亮から聞いたことが影響している。いや、前後関係を考えればそれ以外無い。彼女はその時、話を聞いていたのだ。
 誰かに好かれ、受け入れられたいと、その存在を認められたいと、どこかで願っている。
それは喜備の自惚れかもしれない。彼女は全くそう思っていないかもしれない。それでも喜備は彼女を――友情を否定し、壊そうとした、自分とは全く正反対の人格を――受け入れたいと、ほとんど直感した。あるいはこれは、自分なら救えると、傲慢にも思っている証拠かもわからない。誰かから、そう、当の彼女から非難されることもあろう。喜備が彼女から逃げ続けていたのも確かだ。だけど本当にそれでいいのか疑問に思っていたことも確かだ。
 考えて考えて数日が経った時、喜備は彼女を夢で見た。自分自身が、どこか懐かしさを感じさせるセピア色の空間でぽつりと浮かんでいるが、それは自分ではなくあの子だと気付いていた。喜備は何度も腕を伸ばす。だが彼女は気付いてくれない。声を出そうとしても、届かないし、そもそも出せない。やっと出せた時はそれが自分の寝言となって聞こえて、夢から覚めてしまう。寝汗を多くかいていて、疲労感と気持ち悪さと、そして自分の無力さを痛感するのである。
 ぼんやりとした空間で見えた彼女はひどく、寂しそうだった。
 自分の声は届かないのか。自分の手は伸ばせないのか。喜備はやるせなく掌をただじっと見た。第一、喜備もあれだけ彼女を否定したのだ。そしてがむしゃらに逃げてしまったのだ。お互いが手を握り合うには、距離がいささか広がり過ぎてしまったのかもしれない。
 このまま彼女の存在が消えれば、今抱えている問題が全て解決するのかもしれない。誰かに体を乗っ取られる心配も、友達たちにひどいことをするかもしれないという懸念もなくなる。亮も気が晴れるだろう。何でも受け入れるという旨を伝えれば、春龍とも何とか元通りになるかもしれない。そうすれば、喜備には何もかも問題が無くなる。気ままな学生生活を楽しめるだろう。
だけど喜備は、そのもう一つの存在をそのまま見捨てることが出来る程、狡猾では無かったし、冷たくも無かった。
 喜備のやろうとしていることは言ってみればただの偽善だ。綺麗ごとだけを並べている。自分を侵す存在にそんなことが出来るなんてお人好しにも程があると自分でも思っていた。だけど、このまま終わりたくなかった。
 それはただの意地っぱりだと、人は言うだろう。我儘とも言うだろう。けれども喜備は見捨てられなかった。彼女という存在も、春龍とのことも、何とか自分で解決したかった。納得がいくまでは、考えることをやめることはできない。たまに覗いた陽光を感じると、喜備はそう強く思って道を進んでいったのだ。


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