ようやく、肩に力を入れずに、本当に自然と笑えるようになった。そう感じながら喜備は微笑を浮かべていた。しかし、向こう側に座る春龍の顔がどうしてかぼやけてくる。目元に潤みを感じ、鼻の奥がつんと沁みた。涙が出る、と思った途端に、ぽろぽろと心の雫は零れていった。
「あ……喜備さん」
「あ、その、ごめんなさい」
 手の甲で拭おうとするが、春龍はさっとハンカチを差し出した。この間のやりとりと同じだ。けれど違っているのは、少し春龍が慌てているような、以前に比べてスマートさがやや欠けた風に見えることだ。おろおろしていると言えば少々聞こえは悪いだろうが、自分が不意に涙を流してしまった所為だろう。勿論、喜備の方だって自分の涙に対して不意打ちだと感じていた。
 以前と同じように、ハンカチからほのかにする彼の香りが、喜備を安心で包む。もう涙も収まった。
「ありがとうございます」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
 春龍は微笑しながらハンカチを受け取った。え? とその言葉の意味を考えようとした時に、玄関の鐘が来客を告げた。少し、乱暴に鳴らされた印象があった。普段は店に入ってくる客はあまり気にかけたことはないが、その所為で誰だろうと振り返ってしまう。そこには意外な人物がいた。
「あれ? 喜備?」
 人柄を表すような、快活で明るい声。扉を開けたのは幹飛だった。その後ろから顔を覗かせ、方々に目を向けているのは希威馬である。部活帰りなのか、二人ともスポーツバッグを提げている。
「大人っぽい店だなあ」
「あんたには相当似合わないわね……ん?」
 幹飛は何に目をつけたのか、つかつかとこちらに向かってくる。その足音は、今まさに苛立ちが湧きあがったと容易に想像させるものだった。どうしたのだろう? と喜備は春龍を見る。彼は渡されたハンカチを手に持っていて事態がどうなるのかときょとんとしている。そして喜備の目元はまだ赤い。ハンカチを返した後、手の甲で擦ったりもした。
「ちょっと春龍先輩っ! あんた喜備を泣かせたわね!」
 喜備の肩を掴んで、威嚇するように彼女は春龍を睨んだ。
「そうなんでしょう! 何かこの前みたいにひどいこと言ったんでしょうそうなんでしょう!」
「ちょ、ちょっと幹飛、落ち着いて!」
 怒り迫る彼女はまるで暴れ馬だ。普段のようなからかい半分等ではない。怒りの圧力が伝わってくる。おそらく本気で怒っているのだろう。春龍に悪いと冷や冷やしてしまう。しかし、春龍は何を勘違いしたのか、苦笑に似た意地悪そうな笑みを浮かべた。
「……はい。泣かせてしまいましたね」
「え、ええっ、先輩っ!」
 目を丸くし、白黒させて、口もぱくぱくさせる。春龍の様子にいちいち喜備は忙しい。幹飛もこの答えが意外だったのか、え、と一瞬裏返った声を漏らしたが、やはり勢いは収まらない。拳を振り上げる。
「ようやく本性現したわね、このお……」
「ちょ、ちょっとさすがにそれは、幹飛やめてえっ」
 しかし、鉄槌は下らなかった。それどころか彼女はやや震えているのである。それは寒さ、恐怖、寂しさなどからくるものではない。ゆっくり拳は下げられて、口元を押さえる。くす、くす、と微かな笑い声が出た。
「あー、おっかしー!」
「み、幹飛?」
「先輩、冗談も言えんのね。あはは」
 少し、目元を手の甲で擦り、喜備を見た。ぽかんとする喜備の頭を撫でる。
「……ほら。悪い人なんかじゃ、なかったでしょ」
「う、うん」
「先輩が何言ったってそんなの関係ないんだからねーっ」
 おどけるように、春龍を指差す。

「悪いけど私は喜備みたいにうじうじうじうじ、ああでもないこうでもないっていつまでも悩まないし、言葉だって足りない奴だから、ストレートにばしっと言っちゃうわよ。
 先輩は信頼に足る人よ。いい人よ。文句は言わせないわ。いい? わかった? 例えばりばりに悪い奴だったとしても、そりゃあ程度にもよるし考えるかもしれないけど、それくらい何よ。先輩と私だって、友達でしょう!」

 さすがの春龍も突然の宣言に圧倒されたのかしばらく目を丸くしていたが、やがて微笑した。
「それくらい面と向かって言っていただけると、いっそ爽快ですね」
「そうでしょ? それなのにこの子ってば本当、世話が焼けるわ」
 色々あったんだよ、幹飛だってわかってるでしょう、と反抗したい気持ちだったが、どちらかと言えばまだこうして笑っていたかった。喜備もどこか、すかっとした気分でいる。
「仲直り出来たんじゃん」
 いつの間にか傍に希威馬がいた。彼には珍しく、申し訳なさそうにぎこちなく笑っている。落ち着いた紅茶館の雰囲気に 緊張しているのだろうか。こないだはごめんな、と首を掻く。
「俺が邪魔しちゃって。……でも、よかったな」
 はっきりとした笑顔を見せてくれたから、喜備も感じている嬉しさが倍になったように胸が熱くなった。何も知らなくても、自分に関係のないことでも、誰かの喜びを祝える人。希威馬はそういう人だ。
「ちょっと! それ私の台詞なんだけど」
「いいじゃん別に」
「もう、あんたって奴は。つい最近まで何があったか知らなかったくせして、おいしいとことってくんだから。まったく油断も隙もありゃしないわね」
 と言ってから、まあそんなに計算高いわけないわねと皮肉るような目で希威馬を見る幹飛。その通りの人柄らしく、希威馬は人のいい笑顔を続けていた。きっと天然と偶然が重なったのだろう。
「あ、そうだ先輩。まだ自己紹介もしないで。俺は越後希威馬っていいます。教育学部の一年で、幹飛と専門は違うけど同じ学部で、同じ部活。越後って名前だけど福井出身じゃなくて、北海道から来ました」
「見た感じそのままの体育会系の馬鹿よ」
「まあそんな感じ! よろしくっす」
「ええ、よろしくお願いします。こちらも、紹介が遅れまして……私は薄雲春龍。文学部の二年です。そうですか。あなたも三国の人というわけではないのですね。北海道とは、また遠いところからお出でになられたんですね」
「好きな所だけど、いっぺん、出てみたくて。春龍先輩も県外っすか?」
「出身も確かに県外ですが、私は帰国子女で」
 そう言い握手を交わした。その後も二三の会話があった。突然の出逢いからちょっと考えられないほど、男子二人の応酬は淀みない。全くタイプは違うが、春龍と希威馬は意外にも相性がいいのかもしれない。年上でかつ様々な人物に出会ってきた点で春龍の方が適応力はあるだろう。
 考えるともなくそんなことを思っていたら、また玄関の鐘が鳴った。時計をちらりと見れば、そろそろ午後のお茶の時間と言えるところだった。あんまり長居してはいけないなと玄関の方に目をやると、そこには見慣れた顔があった。

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