アフタヌーンティーの時間、特に今日のような休日は特に混みあうのに、不思議なことにその時間がずれた。春龍と黄桜は、少し早めのお茶の時間の応対に追われたことになる。その所為で余計、忙しさが抜けた後の、ぽっかり浮いた時間をぼんやり過ごしてしまうのだ。
 春龍の視線の先は、窓の向こう。しとしと降り続いていた雨はようやく上がってきた。お客は皆、雨宿りの為に訪れたのかもしれない。新規の顔触れもやや多めだった。皆この紅茶館を気に入って、また来店してくれるといいのだが――そんな風に業務のことを考えていても、それは所詮思考の中の仮面にしか過ぎなかった。片隅に追いやって、別のことを考えていても、ずっと気になることがある。その所為で、たとえ空が青く伸び伸びと晴れ渡って、そのまま夏が来たとしても、春龍の心は晴れないだろう。
 喜備とのことは、彼の視線をどこか虚ろな、寂しげなものに変える。そしてずっとずっと向こう側に、何とも形の定まらない、雲のような想いを飛ばす。それこそ、曇り空の、灰色の雲の中を進んでいくように。その先に、彼女がいるかどうかもはっきりしないのに。
「……私は」
 店内にぽつりと、雨粒のような言葉が垂れる。
「私はもしかしたら……いや違う、絶対に、彼女にすぐ、否定してもらいたかった」
 一人、重たい雨に打たれるように肩を落とした。
「そんなことないと、穏やかで、優しくて、だけれど芯のある声で私を支えて欲しかった」
 自分――薄雲春龍という人間に、冷たいところ、暗い一面があるのは否定しない。だからといって、そのことの為に、全ての時間が真っ暗な闇に塗り潰されている人生を送ってきたとも、そして完全にそういう人格になったとも決して言わない。そう思う気持ちは、自尊心に似ていて、しかしどこか微妙に違う願いだ。
 彼女に何か超自然的な力があるわけでもない。それでも、柳井喜備という、何てこともないまだ涙を知らない少女のように――本当はそんなことはなく、そう言うのは侮辱でしかないのだけれど――可憐な彼女に、自分の我儘な反抗に屈せず、彼女が見たままの春龍を認めてもらえれば、否定せずにいてもらえれば、曇天のような視界と心は一気に晴れるだろう。
 そして、幼い頃からふらふらと雲のように、行き先もわからなかった自分が、ようやく、初めて居場所を見つけられるようにもなるのだ。全てを打ち明けた上で彼女と対等で友達でいたかったという想いと、その賭けにも似た想いは並列し、時に同化し、春龍を動かし、願いを込めながら紡ぐ一つの細い糸になっていた。
 幼い時分から見守ってきてくれた黄桜に、残念ながらその役目は無い。新しい場所で出逢った新しい人物だからこそ、我儘で鬱屈した自分に光と安らぎを与えられる。
 それ故に、もし何も無いまま過ぎてしまったらと、恐れ過ごすのである。自分で撒いた種、自分で仕掛けたことなのだから、自業自得だと言われればそれまでだろう。十分理解しているつもりだったが、予想以上に苦しく、もどかしい。また、身を千切られるように切ない。自らの愚かな所業を、春龍はひたすら悔やんだ。
 春龍の雨粒は、後ろで控えている黄桜にしか届かない。けれども黄桜は何も言わず、カップを磨いている。依然として彼は呟く。
「もう、駄目ですかね」
 力無く拳を握った。
「もう、彼女と友達とは、言えませんでしょうか」
 苦笑を浮かべてみるが、偽りの笑みは何の解決にもならない。ただ、俯いてしまう。回復してきた空模様の方が、まだ何か与えてくれそうな気がする。
 しばらく無言が続いた。小さく流れている室内楽でさえも、春龍の居心地を悪くしていく。硝子の触れあう音がして、彼は顔を上げカウンター側を向いた。黄桜はいつものように難しい顔をして、じっと自分を見つめていた。少年の頃も、彼は厳しい目つきで自分を見た。何か、大事なことを言う時は必ず。
「……そうやって」
 傍らの布巾を丁寧に畳んだ。
「傷付いて、傷付けて、人間というものは成長していくんだ」
 慰めなのか、戒めなのか。ただ一つ、その言葉が真理だということは解った。俯いて思い返してみれば春龍ももう、二十年以上生きている。勿論、言葉の上では解っていたつもりだ。だけど、いざ自分がその境地に立たされてみないと、何もかもわかったとは言えないらしい。
 子供でしかなかったこれまでの自分に背を向けるようにして、春龍は黄桜に背を向けた。そして目を閉じた。喜備と初めて出逢ったまだ初夏の香りがほのかだったあの日が、目蓋の裏に鮮やかに映し出された。何の話をしたか、もう大分経ってしまった今、なかなか思い出せない。彼女は覚えているだろうか。そして何度か学内で出会い、彼女の友人達とも仲良くなれた。
 海外にいた頃や、大学に入学した頃に比べると考えられないほど、自分は人と接してこれた。自然に笑えたし、人を信じられない、冷たい一面なんて冗談でしかなかった。まとめれば一日にも満たないような時間が、今はひどく愛おしい。だけど、もう終幕らしい。目を開き、春龍は幕を引こうとする。名残惜しく、下唇を柔らかく噛んだ。
さあ、奇跡のような、幻のような日々に、目を閉じて別れを告げよう。
 その時だった。静寂の帳をがばりと奪い去るように、玄関の鐘がからんからんと忙しく鳴り響いた。驚いて体をびくりと震わせる。悲哀と、どこか甘美な香りのする別離の儀式は滑稽なほど宙に浮く。ここで全て終いにしてしまおうと思っていた春龍は若干戸惑いながら玄関の方を向く。そこには、もっと戸惑う事態が待っていた。
 息を切らして店に飛び込んできたのは、柳井喜備だった。
「……喜備、さん」
 あの日のように何度も息をついて、呼吸を整えている。だけど今日は、あの日と事情は違っているらしい。顔を上げ、春龍の瞳を見つめる双眸が、とても強い。
 もう逃げないと瞳自体が、いや、彼女全体が訴えている。
 逃げようとした臆病者の春龍を、逃がさないと射止めるように。
 先輩、と嗄れた息交じりで彼女は言った。

「お話が……どうしても、先輩とお話ししたくて、ここに来ました」

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