千尋は操に頑張れといった。無責任な言葉だ。操は千尋を待たずに食堂から出て行った。暑くて、肌の細胞を刺す様な日差しの中を操はバス停まで歩く。ただ歩く。自分の足元を見つめて、路上の虫や日陰や塵芥を見つめながら、何も考えずもくもくと歩いた。しかし操に迫るものだけ、操はきっちり捉えていた。人間ではない、他でもない操から発せられる情念だ。操自身が、見つけてしまったものである。
 曹がいなければいけない。曹がいて自分に話してくれて笑ってくれて抱きしめてくれて、何でもない時間が全て甘い時間にならなければ、もう、立っていられない。操の眉間にちりちりと迫る、想いの攻撃は勢いを増していく。その度、操は泣きそうになった。
 バス停に着いたらすぐにバスはやってきた。ほとんど乗車客がいない。操はかなり後ろのほうに席をとる。薄暗くて心地よい。発車します、とアナウンスが出てすぐにバスは走り出す。操の体は、静かにバスに揺られた。
(友達だったら)
 何も考えないでいると、自分の欲望が襲ってくる。だから操は今更無駄なことを考えた。そしてそうしながら目を閉じて、揺れに身を任せうとうとしようと思った。
(友達だったら――こんなに、辛くないのに)
 操は目を閉じている。しかし操のまつげが段々濡れていく。小雨が振り出したように、しっとりと濡れる。
(好きに、ならなければよかった)
 ぽろり、と操の涙が頬を伝う。熱いそれは、冷えたバスの中ですぐに冷やされた。
(こんなに訳が解らなくて苦しいなんて)
 世の中には恋をしない、恋人などいらないと頑なに主張している人もいる。彼らは皆、自分自身を揺るがす想いの津波に苦しみたくないから、逃げているのだろうか。それとも何もかもが面倒だからだろうか。自分もそちらへ行けたら、楽になれるだろうか。
(いっそのこと――出逢わなければよかった)
 今度はぼろぼろと涙が溢れてきた。さすがに操はびっくりして周りをきょろきょろ伺うが、誰もいない。操はタオルで涙を拭いた。鼻水をすする。もう一滴か二滴、涙は落ちる。操はそのまま流そうと、うつむいて涙を膝に落とす。ジーンズに涙は滲む。その滲みをじっと見ていた。滲みの形は非常によく似ていた。自分の姿が浮かぶ。曹の姿が浮かぶ。
 どうして一つにならなければいけない? 操は自分に言い聞かせる。曹は子供っぽくて強引でがさつで、自分と似ているところはまず無いはずだ。
(血液型が同じくらいじゃない)
 同じAB型である。たったそれだけ、些細なことだ。操は心の中で笑い飛ばそうと思ったが、その些細なことが更に操を震わせた。二人の出逢いのきっかけだったからだろうか、曹と操の大切な繋がりだからだろうか、操にはわからないが操の眼球は更に潤む。
その二つの滲みは、涙で歪んだ視界の中で、やがて一つになる。
どうしたって人間同士は一つになれないのに。
だけど、ひどく愛し合っている者同士なら、一つになれると錯覚してしまうだろう。
(駄目だ)
 タオルを顔に押し付ける。

(曹さんのことが好きだ)

 操はやはり、根っこの部分のその答えから動けなかった。
 バスは繁華街を通る。もしかしたら曹がいるかもしれない。いつもと変わらない、しかし操にとって重要な意味を持つ笑顔で街にいるかもしれない。
 操の涙は繊維にどんどん吸収されていった。


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