操の体は変わっていった。時計の針が進んで、日が昇って、そして嫌がっていた別れの時まで、操の体が曹を、曹の体が操を離すことはなかった。
「これから、人と会う約束があるからな」
 曹は操の髪を撫でながら言った。
「どこか、行くんですか」
「ちょっとな。……昔の、友達と」
 言い難そうに呟いたそれを、操は何気なく聞いていた。しかし友達、という言葉にまたしても不快な感じを抱き、心なしか下唇を噛んだ。慣れないことをした所為だろうか、と操は体に責任を置いてごろんと曹に背中を見せる。
「行ってくる。鍵はポストの中にでも入れておいてくれ」
「はい」
 操の返事はそれっきりであった。曹は操の肩を小気味良くぽんぽん叩いてから支度を始めた。階段を降りる音、上がる音、衣擦れの音、ベルトをしめる音、無機的なそれら全てが操を寂しくさせた。耶馬柴家の鍵を置く音など、氷が幾重にも重なったように聞こえた。ひたひたと切なさが操の肌を滑る。それはどこか痛い。
「じゃあな」
 曹は操の感情に気付かないのか、無情に去っていく。操は無言であった。無言であろうとした。シーツにくるまって黙っている。階段を下りる音がよく聞こえる。自分の胸の音と重なって、全身が暖かくなる。熱くなる。

 行かないでほしい。

 操のまどろんだ目が、開いた。
 真っ裸で、操はばたばた大きな足音を立てて階段を降りて彼の肩に手をかけた。
「どうした素っ裸で」
 行かないでほしい。操の喉まで出掛かっている。しかし理性が邪魔をする。そんなことを言っても曹は困るだけだ。曹の方は、自分を散々困らせているというのに、しかし操は彼を困らせたくない。彼に全てを捧げたが、彼を独占する為に、自分を戒める理性を簡単に脱ぎ捨てられるほどには、操は冷静を欠いていない。褒められるべきそれが、どうにももどかしかった。
 ここでまた、彼の方から自然に求めてくれたなら、全部すっきり綺麗になるだろうか?
(ねえ、何とかしてよ、運が強いはずでしょう?)
 だけど強運様は、肝心な時に限って働いてはくれない。心底うんざりする。いつか見たアニメ映画の主人公のように、自分はスランプにでもなってしまったのか? 馬鹿らしい、運を使役することにスランプも何もあるものか。
第一、自分は何でこんなに彼を欲しがってしまうのだ?
 友達でよかったはずなのに、こんな取り返しのつかないことをして、一体何で。

(好きだからなの?)

 ――須臾は永遠に似ているのかもしれない。操は、一瞬のうちに大体そんなことを頭に思い巡らせた。
「……いってらっしゃい」
 うつむいて、操は思惑の混沌の中何とかそれだけ言えた。曹はいつものように無邪気な笑いで返した。どこか陰りが見えるのは、錯覚だろうか。
「行ってくるな」
 ぐりぐり、と操の頭を猫にするように撫でる。操の目に映ったのは、出逢った時から変わらない曹の笑顔だった。やっぱり、さっき見えた迷いは幻だったのだろう。
 操を苦しめていたものが急にしぼんで消えた、そんな風に操は感じたのだった。



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