操の状況が本当に、徐々に変化し始めたのはいつ頃か、操自身よくわかっていなかった。
 ただ、盛夏の始まりと同じ頃だと思っている。



 時は操の学生生活にも同等に流れている。八月が刻一刻と近づくにつれ、七月初頭の頃にはお飾りの雰囲気として存在していたに過ぎなかったテストやレポートの波が、わあわあと押し寄せてくる。毎日レポートの材料を考えたり、テスト勉強をしたり、課題の資料とにらめっこしたりと、それはそれはひどく健全で真面目な大学生の操の姿があった。
 八月に入っても操は曹に会いに行けなかった。メールは交わしていた。彼は山に行きたいと書いている。返事を考えている途中に眠くなってしまってメールはそれきりになった。そしてようやく全ての課題が終了し、操に穏やかで、しかし光にむせ返るような夏休みが訪れる。






 久々に、曹に会いに行く。繁華街を通るのが久しぶりで、なんだか操は懐かしく感じた。たった二週間かそれくらいのことなのに、操はあるべき場所に帰ってきたと冗談のように思う。そして曹に近づく。往来を行く人々に気付かれないようにうつむいて、微笑んでいる自分がいるのを妙にくすぐったく感じた。
 何故曹に近づいているだけなのに微笑んでいるのだろう。
 ただ逢えるだけなのに、すぐ手の届く位置に、彼がいるだけなのに。
 曹の前に人はいなかった。しかし曹は操を見るなり笑顔で手招きした。操は微笑を見られるのが何故か嫌で口元を塞ぎながら近づく。そして少し彼が笑っていてくれてよかったと思う。まったく、とまた顔がにやけるのは、自分に対してだろうか、彼に対してだろうか。


「海へ行くぞ!」
「はっ?」
 曹はいつも通り突然だった。


「山はどうしたんですか」
「山は暑い。蚊に食われる」
「海も暑いですよ……」
 大体友達が沢山いるのだから彼らと行けばいいじゃないかと操は提案した。肘を突き手の甲に物憂げに顔を置き曹は言う。
「荀もカフカも遼も文化祭の準備で遊べないんだそうだ。惇は仕事でいないし、伊予は日焼けしたくないといって聞かない。千代治も文和も予定があわない、進もなあ……」
 と操にはわからない友達の人名をつらつらと挙げていき最後にふうと彼らしくないため息で終わらせた。操はその間、曹の笑顔の理由を知った。
 別に操じゃなくてもよかったのだろう。
 操はそれを考えて少し腹が立ったような気がしたし、少し寂しい気もした。操はいつだって曹に会いに来ていた。曹の方はいつでも待ちの体勢で、だからいつも違う人がいたのだ。
 そんな操の思惑など知らず、曹の勢いはすぐに復活した。
「お前だけだったのだ!」
「はあ」
 操の返事はそっけない。
「今日行くんですか」
「今日行く。今日じゃないといや。今日行く! 行くったら行く、操と行く」
 だだこねる彼の姿は見ていられないほど子供だった。そして机に顔をうずめる。占い館の辺りは日陰になっているが、それでもこの暑いのによくそんな元気があるなと操は呆れたが、仕方がないなと口を開く。
「でも私、水着ないですよ」
「買ってやる」
 がばと曹は起き上がる。黒く美しい形の瞳は、光を持たないはずなのに、夏のきらめきを奪い取ったかの如く輝いているように操には見えた。
 曹は館の呼び込みをほっぽり出して操と共に商店街へ繰り出した。とにかく海へ行きたくてしょうがないようで操を何回も急かす。ゆっくり水着を見て回ることは出来なかった。とりあえず操はビキニ型の水着に落ち着く。
「バイクで行くぜ!」
「曹さんバイクあったんですね」
 準備していたのか、館の裏の方にバイクは停めてあった。大型の黒いバイクで、惇公のバイクによく似ていた。同じ車種かもしれないが詳しいことは知らない。
 しかし、黒は黒でもどこか赤みのある黒で、そして何故かその鋼鉄の車体には似合わない、幼児が好むようなウサギのシールが貼りつけてあった。曹の趣味だろうか。ちぐはぐな組み合わせが目をひくこともある。この前出会った、あの遼という少女のように。
 いや、そのことよりも――曹のもとに訪れさえすれば、海に行くのは操でなくても本当に誰でもよかったということが、やけに操の心に迫った。操は極力考えないようにしていた。考えようとしたら、まずその前に曹のことを想わずにいられない。


 曹を通過してからでないと。


 びゅうと信じられないほど加速して二人は海に向かう。つかまっていろと言うので操は曹の体に抱きつく。バイクに乗るのが初めてだった操はその速さに全身が吹き飛びそうな感覚が恐怖を呼び、とにかく命が惜しくて曹に絡みつく。しかし本当にそれだけだったのだろうか。操が曹に触れて、触れた面々から夏の暑さに負けない熱いものが込み上げてくる。彼の体は熱い。自分と同じくらいの体温を彼は持っていることを認識する。しかし熱いものの正体はそれではないようだ。それきり、操は考えないでただ感じていた。



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