蒼天に吠える獅子




 呆然と、青年は天いっぱいに広がる青い光と陽光を見ていた。
 彼の首筋を、汗が流れる。胸や肩にも、筋をつけて流れていく。穴という穴から汗が噴き出していた。時は六月、暑さの盛りである。もし彼を見る者がここにいるならば、彼が感じる暑さや汗も致し方あるまいと思うだろう。彼はとある城に立てられた壮麗なる三層の楼閣、それも日光や雨粒を一身に受け止める甍の波の上に一人、登っているのだから。その場所と丈を並べられる建築物は見る限りでは皆無である。まるで一人この世界に取り残されたような錯覚を起こしそうになるが、呆然とした彼が抱く想いはそれと微妙に似通い、微妙に異なっていた。
 青年、名を犬塚信乃戌孝と言う。
 信乃は確かに暑さと肌を歩く汗の気持ち悪さを感じてはいた。だが彼はそんな自然から生じる暑さなど意識の外であった。全く空っぽの暑さであった。彼はただおかしいな、と感じていたのだ。それはおそらく、いとけない子供が素直に抱く疑問とほとんど変わらない純粋さであったかもしれない。
 白光満ち走る蒼天の下、信乃の体のところどころは、赤く赫く、染まっている。
 おかしいな。人の血って、こんなに熱いんだっけ。こんなに、鉄錆びた味がするんだっけ。
 父上が切腹された時は冷たかった。与四郎の血だって冷えていた。沢山浴びたけど冷たいから俺の体だって冷たくなっていったし、味なんてそんなもの、全然感じられなかった。今みたいにこんな、滾るように熱くなってたり、それなのに震えを感じたりなどしなかった。

 まるで自分が自分じゃないみたい。

 ああ。信乃は嘆息しながら再び視線を空という大海に泳がせる。
 もしかしたら、俺は違う世界に来ているのかもしれない。多分夢を見ているんだ。だって、父上が腹を切ってまで守った刀が偽物だなんてそんなことあるわけないし、父上と祖父上の勇ましさや忠臣ぶりが否定されるなんてこともありえない。
 そして、そして。俺が、人を傷つけたことなんて全然なかった俺が、人を斬ることなんてないんだ。無我夢中で刀を振るって、俺を追ってきた人の腕や腹や胸や額や足を、肉を骨を魂を斬り裂くなんて、そんなことは。

 そんなことは。

 がくりと項垂れ零れた信乃の呟きは、風さえも消さない。かわりに彼を暑さと熱さの中で一層震わせた。そうして、信乃はわかってしまう。いくら自分が逃避しようと、否定しようと、今自分が生きているここが現実なのだと。幻なんかじゃなかったのだと。もし幻だったなら、自分の手に残る感触はなんだ? 自分に纏わりつく血臭はなんだ?
 幻ではない。幻でないなら、もう信乃にとっては全てが終わっていた。
 父が命に代えて守り続けた刀を何者かに奪われた。それを献上すべき公方の怒りを買った。自分を捕らえようと追いかけてくる者を問答無用で斬りつけた。中には――死んでしまった者もいるかもしれない。いないとは言い切れない。この血で汚れた有様を見れば、否定する方が愚かと言うものだ。
 ――信乃青年が己の過去を振り返っていたように、こうやって彼が血にまみれたことは、今が初めてではない。むしろここへ彼を導いたものこそがかつての血飛沫の記憶だった。青年がまだ少年であった頃。いや、少年でありながら少女の装いであった頃の話。主君に返上仕る宝刀と、信乃少年を守る為に彼の父は腹を切った。その尊い命を血と共に散らした。
 信乃は父の血を浴びた。父の命を失い、信乃は男へ戻っていった。そして少年は青年になった。そして父と祖父の悲願を達成させるはずだった。
 なのに、なのに。
 刀を奪われていたことに気付けずにいた自分の愚鈍さに、下唇を噛めるだけの怒りの余裕もない。ただ信乃は呆然とするだけだ。怒りより絶望より、失望こそが人間の全てを奪うものの正体である。そう言えるほどに、今の信乃に闘志はない。自分を鼓舞する自信もない。
 終わりだ。肌に感じるこの灼熱は、きっと太陽が堕ちてきているのだろう。世界の終焉が今まさに始まっている。
 信乃は俯けていた顔をほんの少し上げた。蒼天の下、信乃が見るものは大きな川と甍のみ。もう追っ手の来る気配はない。もし来るのであれば、それは天からの迎えである。否、天ではなく、地獄の獄卒だろう。人を斬り、父と祖父の想いを台無しにしてしまった今の自分には地獄に堕ちることこそがふさわしい。
 獄卒じゃないにしても、ここに来れるほどの猛者ならば、戦うに不足はなかった。

 どうせ死ぬならば。信乃は思う。
 どうせ死ぬなら、戦って死にたい。両公達の為に勇ましく散ったという祖父のように。

 もう、終わりにしよう。
 そうだ、終わりにする方がいい。思えばいつだって理不尽な、理解しがたい世の中だ。正しい者が不幸になり、間違った道を行く者ばかりが利を得て栄えるような、勧懲の正しくないこんな世界なんて。

 こんな世界なんて。
 全部、いらない。
 俺が目を閉じれば、世界はなくなるんだ。

 目を閉じて、信乃は思う。瞼の裏が透けて、視界は赤い。自分が斬り開いてきた道とこの瞼の赤、果たしてどちらが鮮やかで邪悪であろうか。
 薄らと目を開く。髪を束ねる帯を掴みすっと引けば忽ち解けて、束ねた髪はふうわりと広がる。見る者が見れば、男が女になったと舌を巻くかもしれない。艶やかな髪は男の信乃には勿体なく、女が嫉妬すると評してもおかしくはない。実際、信乃の髪はある少女から羨ましがられていたのだが――もはやそんなこと信乃にはどうでもよかった。
 これから俺は死ぬんだ。
 受け止めた事実。それを覚悟していたはずなのに、心で呟いた誓いもぬけがらな響きでしかなかったのに、重く、ぐったりと信乃の体が傾く。その時だ。
 懐から、間抜けな音を立てて零れ落ちたものがある。
 たわわに実った青梅の一粒程か、それより小振りか、それほどの大きさの玉。白昼の光をその小さな身いっぱいに返して、信乃の角膜を打つ。
 目眩が降る。去来する残像は一瞬で、未だ呆然とした態の信乃はふらり、と手を伸ばし、その光玉を掌に転がした。
 二転三転した玉が再び信乃に放ったものは燦然と輝く白光でも眼球の青痣のような眩みでもない。

 孝、の一字。
 犬塚信乃戌孝という青年が名にし負う、仁、忠に並び賞される最高の徳。

 信乃はゆっくり目を丸くしていく。視界はみるみる鮮明になり、自分に授けられたその名が齎したものを脳裏に描かせていった。
 父が自分に与えた一文字である。
 孝たれと言う、その願い。
 ちちうえ。がらんどうの呟きが風に舞う。響きは枯れ草が揺れるようだ。世界から、その字から逃れるように信乃は再び目を閉じた。それでも現実は轟々と無なる音を立てて追いかけてくる。信乃に降り懸かる記憶の赤黒い血潮は、しかし信乃が今まで斬り開いてきた戦士達の熱ではなかった。
 もはや戦えず歩くこともままならず、ただ子を護る為だけに己の命を真一文字に切り裂いた落武者の、涙の如き迸りだった。
 涙。そう、あの時信乃は泣いていた。自分の頬を流れるのが涙なのか血なのかわからない程父と子は近付き過ぎていた。縋りついていた。だけど父の自害を止めることはついぞ出来なかった。ぞっとするほど冷たい血は信乃を唐紅に染め上げた。血の海に、一人信乃だけが残った。月だけが、信乃の涙を見ていた。
 幼い頃はわけがわからず悲しかったのだ。味方が殆どいないに等しい敵だらけの村で独りになるという事実が嫌だった。そんな状況を生きていくことなど、死ぬよりも過酷だった。いや、ただ単純に、もっと突き詰めて言うならば、愛する父がいなくなることが、こうしていなくなってしまったことが何よりも苦しく辛く悲しく、認めがたいことだった。

 孝なんて、そんなもの。
 父上がいなくなっては、意味がない。

 次に自分は何をした? 問うまでもなく信乃の記憶はすらりと移り変わる。二つの死の記憶だった。血の呪縛をまるで連鎖させるように、信乃は全てを引き起こした犬の首を斬り落とす。全てを引き起こした? ああ、そうだ。信乃は昔母に聞いた話を思い出す。母の懐妊にまつわる奇瑞と共にその犬も――信乃が愛した忠犬与四郎も、この世界に現れたのだ。
 そう考えると。からからに乾いた口が尚乾いてくる。
 全ての元凶は自分にある。
 何もかもを、全てを引き起こしたのは、自分ではないか。
 その時自分はそれを理解していなかったのか、それとも深奥で辿り着いていたか。信乃にはわからない。こうして大人になった今でもわかることではない。だが、打擲によってぼろぼろになり、もはや父と同じように命が長くない与四郎が自ら差し出した首を斬るのに、長年彼に抱いてきた愛を情を、信乃は振り切った。
 それは自分を斬ったのと、同じではないか。
 ああ。信乃は再び嘆息する。もはや生気が感じられない。世界は微かにも震えない。ただ赤黒い今と過去が繋がって信乃が背負うべき罪や業を見せつけているだけだ。気付けば何度自分はこの光景を繰り返しているのだろう? 自分の時はあそこで止まっているのではないか?

 止まっている時。信乃は、最初から今まで、同じ時にいる?

 ――第一、俺は。

 信乃は血塗られた記憶の荒野に佇み、思う。
 あの時俺は、死のうとしていたんだ。
 俺は、そうだ。今になって初めてじゃ、ない。

 諦めていたんだ。
 最初から、ずっと。

 悄然と、信乃がその事実を認めたか認めなかったかの刹那、風が吹いたか吹かないかの瞬間。
 掌がかあっと熱くなる。
 掌中にある珠が、猛烈な光を、朝日よりも尊く眩い金色を信乃に放った。
 ――だがそれは単なる幻に過ぎなかった。実際は降り注ぐ陽光が眩し過ぎるだけ、そして信乃が暗い視界にいるだけであって、差しこんだのが微かな光でもやけに大袈裟に見えただけだった。
 それでも、信乃はその現象に大きな意味を見出すことが出来る。珠の出自を思えば自然とそうなる。
 斬り落とした犬の首、その血潮と共に噴き出た煌めき。
 母が神女から授けられたと言う霊玉。
 こんなものに意味はない。ここに浮かぶ字が自分の名前の一字であってももう遅すぎる。そう思って捨てた。捨てたと思えば跳ね返ってきた。何度捨ててもその度に信乃の懐に戻ってきた。
 その珠は、信乃の元に在ることを諦めなかった。

 諦めないで。
 珠自身が、そう言うように。

 力無く、信乃は己の左の二の腕辺りを右手で掴む。不思議とその部分も熱を持っている気がした。珠が跳ね返りぶつかったその部分に出来たのは牡丹のような形をした赤痣だった。
 この珠と花の痣が引き合せた宿世の兄弟の名を呼んだ。

 同じ痣を持ち、同じ珠を持つ青年。
 たおやかな優しさの中に、武士の不屈の精神を通わせる誇り高き若者。
 義という徳を名にし負い、珠と心に宿す、唯一無二の友。

「……額蔵」
 掠れた声なのに、はっきりと聞こえた。まるで目の前にその額蔵本人がいるようにそれは肉を持っていた。はい、何ですか信乃さん、と朗らかな声が今にも返ってきそうだ。
 けれどもここには信乃一人。彼の面影を探すようにまた、掌中の珠を転がした。
 以前にもこんな風に珠を転がして見ていたような覚えがある。いや違う、と信乃は首を振る。珠じゃない。珠に似ているけどそれではない。
 確か、そう。信乃は再び目を閉じる。世界から逃げる為ではない。記憶を探る為だ。今に繋がる出来事。

 そう。今である。
 決していつまでも、同じ時の檻に繋がれているわけではない。


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