最後の希望の物語




 女は弱い。この世の女は、全て負け犬だ。
 私はそのことをきっと、生まれた時から知っていた。食べることと同じくらいに本能としてその事実は備わっていた。最初から全て負けているのだと、私は、女は、最初から諦めなければならない弱い生き物なのだと。
 そして私は、そんな弱さを嫌った。女を嫌った。自分も含めて、唾棄すべきものと考えていた。

 いいやむしろ。
 私は弱さを恐れていた。

 ただ男に伏せ続けるだけ、繋がれているだけ、いいように翻弄されていくだけの哀れな女に、なりたくなどなかった。
 だから私は駆け抜けた。昇りつめた。女というこの弱い身で世を生き抜く為に、美貌を始めとするあらゆるものを利用して、この小さな南の国の――そう、それはこの国全体から見ればあまりにも小さな国の、けれど――頂上にいた。私は、他の弱い女とは違う。
 私には力があるのだ。
 私の言葉で、私に媚びへつらってくる男達の運命が決まる。奴らを生かすも殺すも私次第だ。私が言葉を繰れば、奴らと言う駒は国と言う大きな盤の上を面白いように動いていく。国と呼ばれる天秤が大きく左右に揺れ動く。他の女では決してこうはいくまい。
 まるで神の託宣も同様だった。私に媚びへつらい、時には泣くように懇願するその裏でふんぞり返り、偉そうに笑う男共を見て、内心誰よりも高らかに笑っていたのは私だった。いい気味だった。弱い女の一言二言に翻弄される奴ら。私の掌の上で遊ばれる奴ら。そしてそんな力を手にしている私。

 ああ、私は強いのだ。
 私には、力があるのだと。

 そうして私はその強さで、心安く暮らしていける永住の地を得た。私の言葉で人がどうなろうが、国がどうなろうが、そんなこと私は知らない。私はただ、私が生きる為に出来ることをしてきたまでだ。
 多くの人間と、それは同じことだろう? 故に、誰にも私のことを責められまい。
 きゃんきゃんと口煩い犬のようだった金碗孝吉も国を捨てた。殿の血脈に繋がるものだと言うのに呆れたものよ。那古七郎のように、腐敗しきっていてもなお懸命に仕える方が善であるはずなのに。
 だが構わぬ。これで私を脅かす邪魔者は全ていなくなった。
 もう、何も心配することは無い。誰にも邪魔されず、悠々と生きていける。女が――否、人間 が得られる最高の幸せの境地に、私は辿り着いたのだ。




 でも、でも。
 誰に言われなくてもわかる。むしろ、最初から知っていた。その条件に敢えて目を伏せていただけだ。

 本当は、私には何の力もなかったのだ。

『いいか玉梓。お前自身には何の力も無い。ただの女に過ぎん。私の足から逃れることも出来ないくらいの弱い女だ。虫以下だろう。何の意味も力も無い、ただ弱き女よ』
 そうだ。私は弱い。
『だがお前の言葉には力がある。尤もそれも光弘様の御威光を笠に着たものでしかなかったがな』
 そうだ。私はただ殿と言う虎の威を借りていたに過ぎぬ。いや、狐ほども賢くない。とんだ間抜けだ。せいぜい狸が似合いだろう。
 自分は強いと、何でも出来るとどうして思い上がっていた?
 簡単だ。そんなの。
 本当は、自分自身どうしても覆せない弱さを、わかっていたからだ。
 ずっとずっと弱さに怯え続けていただけに過ぎない。
『けれども今までお前の言葉によって殿が動かされ、この滝田は変わっていった。殿だけでなく家臣達も。殿があそこまで堕落したそもそもの理由はお前にある。この国の腐敗の原因もつまり、全てお前にある』
 そうだ。悪いのは私。
『お前が全ての元凶さ。
 この世全ての悪に連なる女よ』
 そうだ。私こそが悪だ。
 私の一言で民は苦しむ。私の一言で誰かが道を失くす。そして私の一言で、誰かが死ぬ。それをわかっていて、そこに生まれる数多の痛みや苦しみや悲しみや憎しみや怒りを、私は無視し続けたのだ。

 ただ、自分が生きる為に。
 この不条理な世の中、女が生きづらい世の中で、それでも生きる為に。

 なんて。
 なんて、浅ましい。

 確かに私は、多くの傾城と同じことをしてきたまで。だが誰にも責められないものであると同時に、同じくらい確かに誰からも責められるものである。
 所詮私はただの弱い女だ。女に生まれた時点で、負け犬だ。
 孔子の教えにも、仏の悟りにも、世界の護りにも、嫌われる。
 それでいてずっとずっと世界に、男に繋がれ続ける。そして絶望しながら生き続ける。
 流れていく。流されていく。何も言えずに隷属して、言うことを聞いて。
 全てを、諦めて。

 そんなのは、死んでいるのと同じだ。
 だから、いっそのこと死んでしまった方がいい。

 ――世界があらゆる方法で私に終わりを告げに来た。私と言う弱い存在を呑みこみに来たのだ。私が真実を知り、悪を自覚し諦めた後、更に腐敗を極めてた国に綺羅星の如く救世主が現れる。私の依るべきところはもう、どこにもなくなった。城もなく、取り入る男達もない。

 だから、死のうと思った。
 死んでしまえば、全てが終わる。苦しみも悩みも恐れも全部がなくなるのだ。楽になれる。

 ここでいっそ死んでしまった方が良いのだ。私は生きたではないか。もう思い切り十分に生きたではないか。ここで醜態を晒すよりもむしろ、潔く美しく死んで世の語り草になる方がまだましだ。
 だから死のう。いっそのことこっちから死ににいってやる。


 さあ、殺さば殺せ!






 そう、心の中で宣言したつもりだった。
 それなのに何故。死んだ方がましと、思っていたのに。
 どうして。

 どうして私はまだ、生きたいと願ってしまったんだろう。

 どうして、こんなにも生きたいと願う? 私には何も無い。約束も無い。希望も無い。帰る場所も無い。行く場所も無い。愛する人も愛してくれる人もいない。使命も無い。尊さも無い。
 ずっとずっと私は独りなのに。
 それなのにどうしてこんなに生きたいと願ってしまうんだろう?
 どうして? 諦めていたのに。諦めきっていたのに。
 本当に浅ましい。一体私はどこまで執着し続けるんだろう。
 まるで獣のようではないか。生きたいと言う欲にかられ、勝てない喧嘩に無駄吠えを続ける――本当に、負け犬も同然だ。
 そうだ。獣だ。犬だ。牙も爪も毒も棘も持たない、人間と言う犬。獣。ただ傷ついていくだけ、それでもなお生きたいと願う、弱い畜生。
 畜生である私に理由なんかわからない。きっと理由なんかない。
 ただ、生きたいと私の中の熱いものがそう叫ぶのだ。
 あまりにも形無くて、あまりにも脆い。美しくもなくて、みっともないだけ。意味だって、そこには無い。

 それが獣の叫びでなくて、何だと言うのだろう。
 獣の願いでなくて、何と呼ぶのだろう。


「お聞き、くださいませ」
 繋がれた私は、裁きの場で素直に告白する。
 それは最大の屈辱だった。だが、裏を返せば――私の唯一の武器でもあった。
「女は、皆弱い者です」
 そんな当たり前のことを、誰にも見せないでいたか弱い涙で訴える。私の一番嫌いな女の姿。弱さを象徴する姿。
「三界に家はなく、ただ夫の家をのみ頼るものとする。誰も彼も皆哀れな者です。百年の苦も楽も、その従う者次第」
 そして私はかきくどいた。自分のこれまでのことを。多少の誇張もあったかもしれない。嘘も含んでいたかもしれぬ。裁きの場には逐電した金碗八郎孝吉もいた所為か、これみよがしにと私は彼を攻撃した。――お前がここに残っていたならあるいは、もっと別のやり方で殿を救う方法があったかもしれないのだと、そんな勝手な責任転嫁だ。

 だがいいだろう。
 私は、誰にも見せないでいた弱さを、ここまでさらけ出しているのだから。

 不意を突かれたように奴は激高した。自分は先に捕えた者や討ち取った者とは違うのだと、自分を弁護するならまだしも、人を謗るとは何事だと、過激に息巻いた。錦の袋に包まれた毒石め、とも吐き捨てた。
 ほら、こんなものだ。
 男の弁に私は、やはり勝てないのだ。
 そのことを自覚したのと、過ぎし日の殿への罪悪感が玉なす涙を作っては勝手に転がっていく。
「確かに」
 そう――私は悪だ。この国を腐らせた女だ。貞女でなどあるはずがなく、淫婦でしかない。
 けれども、情が全く無いわけではなかったのだから。
「罪は私にありましょう」
 自覚した弱さと悲嘆に顔が歪む。必死にかきくどく私がいる一方で、そんな私を冷めた目で見つめる自分がいる。
「里見殿は仁君、と聞いております」
 私は、何を言っているのだろう。
「たとえ敵の士卒であろうとも、殿の元に参上する者は殺すことなく、用いることもあると聞きます」
 釈明の余地はない。あの金碗の言う通りだ。万に一つの可能性もない。やはりいっそ死んでしまった方が楽なのに、全くこの期に及んで、本当に何を言っているのだろう。
「罪は、確かに私にあるでしょう。けれど、けれど女など、物の数にも入りますまい」

 こんなに見苦しく震えて、涙まじりの声で、醜いこと甚だしい。
 それでも、そんな醜態を曝してでも、なお生きたいと望むのか?
 生きたい、生きていたいと、そう吠えるのか?

「願、わくば」
 でも、私は。
「私を、お許しください」

 私はやはり、生きていたくて。

「故郷へ、帰らせて下さいませ」
 そして浮かべた笑みを、私は見ることは出来ないけど。
 ああ、なんと嫌らしいのだ。
「お願いでございます、どうか、どうか。金碗殿、あなたも、同じ神余に仕えた身ではございませぬか、どうか、お許しを」
 本当に惨めだ。この世で一番情けなくて、哀れで、きっと犬なんかよりももっと、もっと、もっと酷い存在だ。
 私は、最後の最後で、あんなにも嫌っていたはずの弱さに平伏した。

 女の弱さに、頼ってしまった。
 弱い。おぞましい。あさましい。
 私の嫌いな女の姿だ。涙を流して、許しを乞い、命を乞うなど。

 ああ、いやだ。
 女になど、女になど、生まれたくはなかった。
 生まれたくは、なかった。

「確かにその罪は軽くはないが、女子だ。赦す。助けても問題なかろう。孝吉、よろしく取り計らうように」
「お言葉ですが殿。
 此度の戦、定包に次ぐ逆賊はこの淫婦玉梓であります。数多の忠臣を追い失ったのみにあらず、定包と共謀し光弘候を落命させたのでありますぞ。これらをお忘れですか。色香に迷い赦されたと口さがない人々は噂しましょう。
 とても生かしておくことは出来ませぬ。いかに殿が仁君であらせられましても、この淫婦玉梓が生きているだけで殿の名声を疵付けることとなりましょう」
「ふむ――そうか。誤ってしまったな。すまない」



 ほら。こんな風だからだ。
 私の声は、誰にも届かない。
 私の言葉には、本当は何の力もない。
 私の願いなど、誰にもわからない。
 私なんかの願いなど、何の意味もない。



「疾く、首を刎ねよ」


 それは君子の言葉にしてはあまりにも軽く、私を断罪する。
 ――第一、男は皆、平気で言葉を裏返す。私以上に、言葉を巧みに弄ぶ。あの男だってそうだった。言葉で頂きまで登り、そして言葉で私を陥れた。
 男は皆、女のことなど。
 ああ。
 やはり私には、女である私には、何の力も無かった。

 私には何も無い。
 そして、私の言葉にも、何の力も無い。

「助けようと」
 憎い。
「言って下さったでは、ございませぬか」
 まるで戦場のように荒れ切った頬を、透き通った涙が一筋、流れていく。
 零れ落ちる言葉は、子供のいとけない声よりもなお空っぽであった。
 子供の、いとけない?
 そうだ。私はただ、生きたかっただけだ。
 出来るなら、そう――何も知らない子供のように、笑って生きてみたかっただけだ。

 だが――願いは果たされない。

「里見殿も、金碗殿も、皆」
 ああ。
「人の、女の、命を、弄んで」
 憎い。
「何が、仁君、何が、忠臣、ですか」
 涙が火焔のように吹き出てくる。朱い血が煮だったように頬が熱く赤くなり、尖った歯と歯は今まさに獲物を懲らしめているとばかりに食いしばる。
「何が、何が何が何が!」
 憎い、憎い、憎い、憎い!
 なのに、なのになのになのに、どうすることも出来ない。
 私はただ、叫ぶばかり。
 吠える、ばかりだ。
「恨めしきかな金碗八郎! 赦すと言った主命を己の勝手な判断で変えおって! 今ここで私を斬るならば、お前も遠くない未来に刀の錆になる! 家も長く絶えて潰えるだろうよ!」
 はは、ははは! そう笑う。かつてそう笑ったように、私によく似合う高慢な笑いをいと高らかに狂ったように。でもこんな笑いにだって、もはや意味はない。だけど笑わずにはいられない。私の中の激しい熱の乱舞がそうさせる。行き場のなくなってしまった願いは一気に質を逆転させ、私に巣食うどす黒いものに変わっていく。

 その断末魔の如きものは、憎しみと言う、怨念。
 怨霊が怨霊たりえる激しい情。

「義実、あなたも、いいやお前も、一度赦すと言っておきながら簡単に説き破られるとは、それが綸言か、君子の言葉か! 忌々しい! 人の命を弄ぶような罪を犯すとは、聞いた程でもないとんだ愚将ぞ!」
 なお笑いながら、罵りながら。
 けれども私の中心は氷になったかのように冷たいのだ。

 何を今更、こんな風に喚く? 叫ぶ? 吠える?
 私の言葉に力が無いことなど、もうわかりきっているのに。

「殺すなら殺せ!」

 私のこの咆哮が一体何になる?

「お前らなど、お前らなど!」

 私の願いなど全て儚いのに、何故この体はこんなに熱くなり、そして吠える?
 吠え続ける?

「子子孫孫に至るまで!」

 こんなのは全て、負け犬の遠吠えだ。

「全て、全て全て全て!」

 それに本当は、とっくの昔から、思い出せないくらい昔から、ずっと。

「この世からなる!」

 私は、全てを。

「煩悩の、犬となさん!」


 諦めているのだから。




 だから、こんな言葉に、呪いも何も無い。
 私には、何の意味も力も無いのだから。

 ああ。
 女になど、生まれたくなかった。


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