私の最愛の御主人様




 あれはいつの頃だったかしら。角太郎様が私の家にやってきて二、三年の頃だったかしら。その頃から角太郎様はよくお勉強なされて、私のくだらない質問、要領をつかめないもやもやした疑問、それから話の筋とは全然関係ないことでさえも、角太郎様はきちんと答えてくれた。だから私は角太郎様とお話しするのが大好きだった。でも、お話よりも角太郎様、彼自身を、お嫁さんになりたいと言う意味で好きになっていくのに、まだ小さな子供だったと言うのにそれ程時間はかからなかった。あるいは、子供だったからなのかもしれないけれど。

 私は、ほんの少しの間だけど犬を飼っていたことがある。飼っていた、なんてものじゃない。保護していたと言う方が正しいくらい短い間だった。犬。私の苗字は犬村と言う。木の陰で弱っていた仔犬を偶然見つけ出したのも今になってみれば何か縁のある話だ。もともと体の弱かった犬みたいで、声を出すのも精一杯、息をするのも辛そうだった。くんくんか細く鳴くその声に胸がきゅっと締まったのを覚えている。見過ごせることなんか出来そうになかった。私はその子を抱いて急いで帰って、出来る限りのことをした。勿論角太郎様にも色々お智恵をお借りしたけれど、その子が良くなる傾向は残念ながら見られなかった。
 それでも何とか歩けるようにはなって、散歩に出掛けられるのももうすぐかしら、なんて思っていたのに、世界というのはとにかく残酷なものだった。その子は折り合い悪く、村を通り過ぎるだけだったはずのならず者達のちょっとした怒りを買ってしまい、見るも無残な姿になってまた木陰に倒れていた。私と角太郎様が見つけた時は、あと四半刻持つかどうかさえ危うい状態だった。家に連れて帰る途中で絶命してしまうかもしれない。それを恐れて私は手も伸ばせなかった。

 当然、その場で泣き崩れてしまう。

 ほんの数日間だったけれど私の愛した仔犬が、もう手の届かないところに行ってしまう。抗えない運命の車輪が、目の前でこの子を轢き殺してしまう。私は何も出来ない。それどころか、たった数日間世話をしただけで何をいい気になっていたんだろう。何も出来ない、こんな小さな命ですら助けられない弱い人間のくせに、何故助けようとしてしまったんだろう。

 何を驕っていたんだろう。どうして手を伸ばしたりしたんだろう。
 この子を殺してしまったのは、私だ。

 きっと、その涙にはそんな意味が込められていたんだろうと思うけど、子供の時分、難しいことはわからない。その子がいなくなることが、死んでいくことがただただ悲しくて堪らなかった。角太郎様がすぐそこにいると言うのに恥じらいも何もなく、顔を真っ赤にして、洟もだらだら流して、みっともなく泣いていた。
「雛衣」
 角太郎様が、そっと私の肩を抱く。角太郎様も、その理知的な雰囲気に似つかわしく静かに涙を流しているに違いなかった。

 けれど彼は、悲痛に満ちた顔をしながらも、泣いてはいなかった。
 どこか裏切られたような気持ちで、荒い呼吸を整えながら彼の横顔をまじまじ見てしまう。

「雛衣。泣いてはいけませんよ」
 す、と彼の指は私の涙を拭う。そんなことをされたら、恋を知らずとも胸を高鳴らせてしまうだろう。けれどそんな状況ではないし、彼が一体何をしたいのかも見えてこず、むしろ不安になった。角太郎様? と疑問に満ちた彼への呼び掛けも何だか遠い。
「この子に、少しの間だけでも逢えて良かった、楽しかった、嬉しかったと、お笑いなさい」
 仰ることの意味がわからない。笑う? そう言うあなたも笑えていないのに? 笑うどころか私の顔はまるで凍りついたように固まって、瞬きも出来なければ反駁も出来ない。
 言葉には出せなくても、目は訴えていただろう。今まさに死んでいく命を前に、どうしてそんな残酷な真似が出来るって言うの? ねえ角太郎様、そんなの間違っているわ。いつも正しいあなた、私の自慢の角太郎様なのに、何故そんなことを?
 そして思い出す。彼が実のお父上――私にとっては叔父上にあたる方からひどく辛く当られていたことを。ある日突然人が変わられた彼のお父上様。彼の立派な孝行心をことごとく無碍にし、時に罵倒し時に傷つけ、彼の尊厳の全てを剥奪するかのような恐ろしいお方。そんな方を父に持っているから? お父上様の残忍さが彼にも移ってしまったと言うの? それとも、当てつけ? 小さな命を弄んで、角太郎様は傷ついたご自分の心を癒そうとなさっているの?
 ううん、ううん。そんなことはない。角太郎様がそんな酷いことをなさる人じゃないことは、私がよくわかっている。あの頃からずっと、この今も変わらない。
 残酷なことを、と考えているでしょうね。そう角太郎様は苦しそうに呟いた。その呟きには、終わりを迎えようとしているか弱き命、それを嘲笑するような人間がまず呟くことは出来ないような重みがあった。
「犬はね、雛衣。飼い主……主人を第一に考え、主人の気持ちを汲む畜生なのです」
 悪い言い方になりますが、思考が単純だと言うことです、と彼は薄い呼吸を懸命に続ける傷だらけの仔犬の額をそっと撫でた。ほんの少しだけ仔犬は目を細める。
「気持ちを、くむ?」
 そう、と彼は、今や頷きでさえも犬の命を削るのだとばかりに小声で返した。
「雛衣、あなたが、逢えて嬉しかった、大好きだったと想い彼を看取れば、彼はその想いを忽ちに理解します。苦しい気持ちが、消えてなくなるのです」
 まるでこの傷が、ぱあっと消えるように。
 そう言いながらも、惨たらしい仔犬の傷から角太郎様は目を逸らさなかった。
「ですが逆に、悲しい、寂しい、辛い、逝かないで。そう言った気持ちを抱いていれば、犬はこう思います」
 そして仔犬と目を合わせた。犬の目はもう既に白く薄らいでいるようにも見えた。
「どうしてそんなに、悲しそうなんだろう。ご主人様は悲しいのか。ならば、ああ、私も悲しい。寂しい、辛い、嫌だ、死にたくない、まだまだずっと、あなたと一緒にいたい」
 こう思って死んでいくのです。
 言いながら彼は目を伏せた。
「雛衣はどう思いますか」

 そんな辛い想いを抱いたまま、死んでいきたいですか。

 人が聞けば、きっと冷たく響いた言葉。だけど私には何かを切に望んでいるように聞こえた。大切な答えを必死に願っているように、だけどそうとは知られないように静かに、黙って、ただ待ち続ける。
 勿論、私はまだまだ幼かったからそんなことに気付きもしない。思い出す私の感傷が施した脚色に過ぎないのかもしれない。
「いや、いやよ、角太郎様」
 そんな寂しいのはいや、と私は彼の肩に縋った。そうでしょう、と優しく、彼が頭を撫でてくれる。
「そうやって悲しませて死なせるよりも、清らかな気持ちで往生させた方が、百万遍の読経よりどれだけ供養になるか、わかりません」
 辛いことを言うようですが、と、彼は犬にしたように、私の額、前髪を撫でた。
「雛衣。お伝えなさい。彼に出逢えたことへの感謝を、たった数日間だけですが、彼を守り過ごせた時への愛情を」
 彼もきっと、と、角太郎様は言い淀む。少し洟をすする音が聞こえた。
 見上げると、彼の下睫毛の辺りが、うっすら湿っているようだった。
「彼もきっと感謝し、嬉しく、幸せに思うことでしょう。絶望的だった己が身に手を伸ばし、短い間でも必死に助けてくれた雛衣のことを、きっとどんな身に転生したとしても、その輪廻が果てるまで」
 いいえ、と彼は緩く首を振る。

「輪廻が果てようと、あなたのことを忘れることはないでしょう」

 微笑むと同時に、涙の粒がころりと、角太郎様の頬を転がっていった。
 卵が生まれるように次々と溢れだしてくるだろう彼の涙を、私の指を伸ばして押し留める。
「わかったわ、角太郎様」

 だから、ねえ、あなたも泣かないで。

 その時私が浮かべた微笑みは、きっととびきり不細工なものだったに違いない。
 けれど、その時私は確かに思ったのだ。
 二人共に、仔犬の方を向く。私は涙を堪え、嗚咽を留めて懸命に言葉を手繰る。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい。ごめんね、だけど、言わせて。
 ねえ、ありがとう。私、あなたと少しの間一緒にいられて、すごく嬉しかったわ。
 大好きよ、愛してる」
 生まれ変わったら、また逢いましょう。
 犬は最初に会った時のようにくうん、と痛ましく切なげに、けれどもどこか、嬉しそうな響きで鳴いたきり、音を発することはなくなった。目を覚ますこともなかった。尻尾を振ることも、毛を一本、動かすこともなかった。
 一つの命が去ったこの世界に、ふわりとした風が一つ、流れていった。




 私はもう、この時から既に思っていたのだ。
 角太郎様、どうか、泣かないで、と。
 どうか、笑って。
 そう、願っていたのだ。




 あの犬のことが走馬灯のように頭を過ったのは、今まさに私が死んでいくからだろう。私の名を、角太郎様が呼び掛けている。それはもう必死に、私が何とか意識を留めておくことが出来るくらいには。まるで泣き喚くよう。実際泣いてもいるのだけど。そう、普段は物静かで声を荒げることもしないのに。私が何度も庵を訪れて、その度扉越しに嘆いても何も言ってくれなかったのに。ずるい人なのね、角太郎様は。
 犬飼様がされたとても奇妙な、角太郎様に関わるお話。聞くともなしに聞いていた、耳に入ってきてはいたけど、生と死の狭間にいる所為かまるで夢物語のようだった。でも、どうやら私は、角太郎様のお役に立てたみたい。私の中に在った、角太郎様が持っていたはずの光輝く霊珠。その珠が角太郎様の讐を討ってくれた。その珠が、角太郎様を待つ本当の運命に誘ってくれる。

 私が見守ることが出来ない運命。
 角太郎様が離れていく。
 私も遠くへ行く。
 私は、死んでいくのだ。
 私達が、二人は、引き離されていく。


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