うっすらと、目を開く。ところどころぼんやり霞んだり滲んだりしているあやふやな視界は、夢でも見ているのかしらと思わせる。瞬きを繰り返していると見えるものは鮮明になっていく。聞こえてくる音もある。風も感じられる。でも生身の自分がそこにいるとは思えなかった。
(何だか、ここ、どこかで見たような気がする)
 きょろきょろと忙しなく首を動かす。多分、時こそ違っているらしいけど、よく見てみれば見覚えのあるものが多い。何度となく通って見ていたと言う程思い入れが強い所ではないけれど、確かに記憶と符合する。
(ここ、滝田城だわ)
 つまり、わたしの家。思うだけでも懐かしい響きだった。
 響きは懐かしくても、見覚えのあるそれらはどこかよそよそしく感じられる。例えるならそのまま、自分の家だと思って入ってみれば既に他人の家になっていた、と言うところかしら。そう思い首を傾げる。ただ直感で、わたしの場合は逆だろうと思う。自分の家は、元は他人の家だった。その、元は他人の家だった頃に、入りこんだのが今のわたしだ。
 ここはきっと、わたしの知っている滝田城ではない。
 多分、もっと昔、わたしの生まれる前の滝田城だ。
 わたしがいるのは奥方の住まう一角に近いところ、その庭だと思う。
(それはいいとして)
 ここにわたしの探す答えがあるなら、探しに行かないといけない。かと言って手掛かりは無い。方々歩いてみて、数珠が反応するところに行けばいいのかしら? でも今は光を失っているし、ちゃんと導いてくれるかしら、ああそう言えば八房がいない――そんなことをあれこれ考えながら辺りをぼうっと眺めて、どこへ行くべきか考えあぐねている時だった。
「あの、お待ちくだされ」
 渡り廊下を行く女性が見えた。後ろから腰をへつらうように曲げている男がひたすら、お待ちくださいと女性に声を掛けている。女性は無視して、廊下をやや早歩きで進む。苛立っているのかしら。そう思わせる歩調。
「玉梓様、後生でございます」
 たまずさ。
(たま、ずさ)
 どこか、聞き覚えのある名前。数珠は何も反応しなかった。けれどもわたしは、思わず駆け寄った。一歩踏み出してからしまった、と思ったけれど――どうやら二人からは見えていないらしい。
 名前を呼ばれたことで苛立ちが増したのかやや感情的に足を止める彼女。けれども、くるっと、やけに優雅な形で女性は男の方に振り向いた。
 瞬間。わたしは目を見開いた。それは確かに一瞬間の出来事だったけれど、普段通りの瞳を取り戻すのに随分時間がかかったように思えた。
 見たことがない。わたしが世間知らずなだけ、わたしの周りの女房達にそういった人がたまたまいなかっただけだから仕方がない。そうだ、そう何人もいてはたまらない。

 こんなに、美しい人が。
 綺麗。ただ素直にそう思った。

 遠くからでもよくわかる。開いた額。艶やかな黒髪。意志の強さの表れた眉。厳しく見つめる鋭い眼は鳶色の瞳が凛と輝く。雪のような白い肌は滑らかさが触らずとも感じられるよう。赤い唇は熟れた果実か、血の滴った宝玉のよう。等身はすらりと長く、無駄がない。けれども程良く肉付いていて、纏う華美な衣とは絶妙な調和を成している。完璧な美人。傾国の美姫。
 玉梓と呼ばれたその人は、わたしが今まで見てきたあらゆる女性の中で文句なく一番、美しかった。呼吸を、瞬きを一瞬でも忘れてしまうくらいに。女のわたしがこうなってしまうのだから、それだけ、彼女の美貌は誰もが認める絶世のものと言うこと。男の人にはどれだけ毒になる艶やかさなんだろう。はかりしれない。わたしは唾を飲んだ。
 彼女は、振り向いた時は見るからに機嫌が悪そうだったけれど、憑き物が取れたようににこり、と微笑した。薄く笑っただけ。なのに随分と艶然と見えてしまうのは、彼女の持つ色気がなせるわざ? 魔性が見せる幻?
「先程申し上げたことが、おわかりにならないのですか」
 男の方は面白いくらい一気に頬を染めた。ああ、やっぱり。男の方に彼女の色気は効果覿面なのだ。それもきっと、下心のある方には。
「あの程度のものでは貴殿のお望みには応えられませぬ」
 まことに残念なことですわ、としなを作って見せるけど、顔を逸らした彼女は一瞬、あからさまな嘲笑を浮かべた。わたしには見えている。男の方はしかし、となおも食い下がる。
(望みを、叶える……)
 一体何についてを言っているのだろう。
『ふん……女だからと、舐めてかかりおって』
 現実の彼女は、発言していない。背を向けている。
 けれどわたしの頭に響いたこの声は彼女のものだ。声の質が違う。作られたものじゃない。険のある尖った声で、女性にしては低音なのがむしろ彼女の妖艶さを際立てている。そしてそれは、忘れ難い、聞き覚えのある声だった。
 八房に憑りついた、何者かの声。
(もしかして、あの人の心の声か何かかしら)
 きっと過去に来ているのだし、わたしの姿もあちらからは見えていない。ならわたしが玉梓の声が聞こえるようになっていてもおかしくない。役行者様の数珠もあるのだから、何が起こってもあり得なくはない。
「お黙りなさい。いや」
 黙れ。作られた彼女の声は現実でも脱ぎ捨てられた。
「あの程度の安物で昇進を願うとは、今までのどの者よりも愚かしいと、そう申しておるのじゃ」
 意志の強い眼差しと見る者全てを惑わすような美貌には、どこか老獪な口調は実に似つかわしい。彼女の実態を目の当たりにしたからか、男はう、と口を噤んで一歩後ずさる。すかさず一歩詰める玉梓。
「今まで私に願い出た者はお前より財力は勿論、智恵があり機転も利く、また武勇に優れた、殿にとって必ず助けとなる、どれもまことに魅力のある者達じゃった」
 袂から取り出した扇をぱん、と開けば彼女の威光が忽ちに広がりでもしたかのように、男はその場で震え上がる。
「また、殿の最愛なれども」
 扇で口元を覆い、玉梓は目を細める。
「側室という身分でしかない私に進呈してくれるものも、どれも価値の甲乙が付けがたい貴重なもの、美しいものばかり」
 その扇も進呈されたものなのだろうか。骨や紙も、実にきらびやかだった。悪趣味といかないまでの華美さは目を引く。
「よって私は願いを叶えた」
 扇で隠れているけれど、彼女は今、笑っただろう。
 血濡れた三日月を、想像してみる。
 ほんの少しだけ彼女は首をもたげる。それだけで随分高見から見下されている気がして、彼女の前にいる者は誰だって慄いてしまうだろう。男がそのいい例だった。
「私の殿への推薦により、昇進を約束させた、実現させたと、こう言うことじゃ。お前もそれをわかっておるのならばそれ相応のものを用意すべきじゃったのに」
 何じゃあのつまらないものは。吐き捨てる。
「笑えもせぬ。殿と私への侮辱と取ってもよいのじゃぞ?」
 恥じ入ったのか彼はうう、とも、その、とも言えなくなっている。ただ身を縮めて震えているだけで、ふんと鼻息を漏らしたきりもう玉梓は彼を見てもいない。指の爪を気にしたり、髪の毛をいじったり。
「は。いっそ燕の子安貝でも取り損なって、落ちて死んだ方がお家の為じゃったと思うくらいぞよ」

 とっとと去ね!

 ぱちん! と扇も閉じられて放たれる冷たい声は、萎縮した彼を突き飛ばすこと容易だった。
「己の身の程の小ささを考えるのじゃな」
 ご無礼を、とへっぴり腰で逃げていく男は声も震えていて、さながら蛇から命辛々逃げていく蛙だ。ふん、と得意げに笑った玉梓は無様なものだの、と小さく呟いた。自分の勝利に悦に入る者の声。清々したとばかりに髪を掻き揚げ、彼女は奥座敷へと再び歩みを進めた。
(……強気な人ね)
 何度か、瞬きするわたし。どこか呆れつつ、肩を竦めながらそう思う。この城で彼女は、女だてらに余程の権力者らしい。わたしが見えていない彼女はどんどん遠ざかる。周りには誰もおらず、彼女についていくしかないらしいわたしも追いつこうと足を踏み出した。

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