真っ黒な闇に、わたしは堕ちていく。
 真っ黒? 少し違うと思う。よく見れば、それは赤い。赤い。朱い。紅い。赫い。何万もの人の生き血を憎悪と悲しみと、そして涙で煮染めたような、戦慄の赤い闇だ。
 あの黒い腕はわたしの首に噛みついて、それから、おそらくわたしの体を噛み砕こうとしているのだろう。今は、きっと胸辺り。蝕まれていくのがはっきりとわかる。この胸の悪心地、そうさせる醜悪なものを、わたしは遠い昔に感じていた。そして今も覚えている。だって、とても長い間だったのだから。わたしが生まれてから三つの年を数えるまで、ずっとずっと蝕んでいた。わたしの体も精神も食べ尽くす勢いで。
 まるで世界の全ての悲しみや憎しみや嘆きに通じてしまったかのような、重く深く、沈み込められた境地だった。
 思えばそれもどうして、だ。何故わたしは泣いてばかりいたの? 何故わたしは多くの子供達のように笑えなかった? 言葉を発せられなかった? それだけじゃない。子育てはただでさえも大変なのに、あの繊細なお母様にどれほど心労をかけさせていたのか。過ぎてしまったことだけど、思えば今も心苦しい。そう、今こうして再び現れ、締め付けている苦しみを、今こそ、わたしは憎もう。そうした原因に最大級の怒りを。
 眉間の皺が増すごとに、奥歯を噛み締めるごとに、苦渋が口と胸に満ちるごとに、憎しみと恨みの、糸車が廻る。

 廻る廻る、廻っていく。
 けれども、それは逆の方向に。
 放たれた糸が、収束していく。

「確かに」
 乳呑児同然な、わたしをじっくりと見つめるのは誰?
 八字の霜の置かれているふさふさとした眉は長く、目が隠されてしまっているほど。でも時折覗く眼光はいやに鋭い。髭も長い。皺くちゃの顔、手が縋るは鳩の杖。まるで絵に描いたような神様、行者様だ。齢幾つを超えるのだろう。
「この子には悪霊が祟りをなしておるのう」
 悪霊、祟り。お父様の言っていた、例の存在。やっぱりそうだったのだ。
「うむ、実にこの子にとってみれば「不幸」じゃ。じゃがの、ちぃとよう考えてみよう」
 その口ぶりは、誰かを思い出させる。
 ああ、あの牛に乗った神童?
 まるで遙か高みから見下ろすかのような眼差しを、わたしは泣きながら受け止めている。いと高き天から、それはつまり山から。
 やっぱりこの老人もあの神童も、神様――役行者だったのね。
「わしが今ここで悪霊を祓ってしまうのは簡単なことじゃわい。造作もないことよの。じゃが昔から言うじゃろう。禍福は、糾える縄の如しじゃ」
 例えば、と見下ろすその目の真意は、わからない。
「一人の子を失うとしても、後に沢山の助けを……幸福を得ることが出来ようぞ」
 そうして見るとどうじゃ、うん? ――周りに人がいるらしい。神はとぼけるように問い掛ける。
「過ちや災いは決して禍だけ、と言うことではないわなあ」
 だいたい、損だとか得じゃとか、そういう風に成り立っておるもんなんじゃわ、神はそう結ぶ。未来の見える神様でしかわからない、卓越したお言葉ね。
「全てを悲しんでもいけんし、また全てを喜んでもいかん」
 これを護りに致せ、とわたしにふっと何かの重みが加わる――と同時に、今感じている心地悪さも消えていく。慣れ親しんだ重みだ。あの数珠だ。仁義八行の数珠。嘘のように晴れていく胸の悪さ、代わりに与えられるのは極楽のような心地だった。だけど、それに浸って全てを忘れるように眠っていく場合じゃない。
 このことを義実夫婦に伝えるのじゃな、と行者は続けた。
「全てをはっきりと告げることは出来んよ。天機を漏らしてしまうからの」
 悪霊とは何のことだと周りの者が問うたらしい。祓っていってくれとも頼んだらしい。だが老人は軽やかに笑って押しのける。

 ああ、やっぱり。
 笑うのね。

「まあ悪霊がおるからと言うても里見が栄えんわけはなかろうよ。むしろ栄えに栄えるぞ。いいことではないかのう。
 子供一人失ったくらいで、一体何をそんなに嘆くことがあるのじゃろうなあ」
 そうやって、人の考えることは全くわけがわからんわいとでも言うように、笑みを重ねるの。
「伏姫と言う名前なのじゃろう。そこからいつか全ての因果がわかる時が来るじゃろう。尤もわかればの話じゃし、わかった時には手遅れかもわからぬがなあ」
 よいか、禍は福となるのじゃぞ、と老人はこれが最後とばかりに、実ににっこりと微笑んだ。目はやっぱり隠れている。その笑みの真意はきっと誰にも計れない。ただ多くの疑問を投げられるだけ投げかけておいて、忽ち飛び去るが如く消えてしまう。わたしに見えるものも同様に消えていった。元の赤黒い嘆きの空間に戻っていく。
 忌まわしい笑いだった。消えてよかった。
 再びどこへ至るともわからない落下が、始まっていく。
(禍が、福となる?)
 笑わせないで。落ちながらわたしは奥歯を噛みしめた。そこでわたしの呪いを全て解いてくれればよかったのに。怨霊を祓ってくれてもよかったのに。そうすればわたしも八房も、あんなに苦しまなくて済んだのに。
 神様はいつもそう。みんなそうだ。ちっぽけなわたし達人間を笑ってばかりで、人の気持ちなんか考えない。理解しがたい観念をおしつけて、ご褒美だと、福だと言いながら多くの困難を降らせてくる。それに逃げ惑ったり、ぶつかって崩れていく人間達を見て、また笑うのだ。あるいは、嘆き悲しむふりをするだけ。

 みんなみんな、神様の悪戯に過ぎない。意味のない遊びなだけ。
 人間からしたら、こんなの。

(納得、いかない)
 胸の奥から絞り出される感情は、怒りだった。
 ちっぽけなわたしの、神を相手取った反乱だった。
(禍福は糾える縄の如し、ええ、確かにそうでしょう。それは否定しない)
 だけど、と心で必死に言葉を繰る。わたしがここへ至った鍵に、言葉は形を成していく。
(そこには理由があるはずなの。因果というものが、何にでも必ず)
 即ち、疑問という形に。
(どうして?)
 天機を漏らすとか、何だとか、そんなあなた達の都合なんて知らない。どうでもいい。勝手なことを言って、何よ。
 理由もわからずに許せるわけがない。こんなに、わたしを苦しめて。
 どうして? なぜなの?
(どうして怨霊はわたしを狙ったの?)
 神の遊びに理由はなくとも、怨霊の生まれ出た理由は必ずあるはずだ。人が人知を超えて、不幸の極みまで導いてしまう恨みを持つ理由が。
 神童が言っていた、里見に恨みを持つ女。父が悔やんだ、己の業。わたしの笑みを閉じこめていた、悪しき胸心地。
 八房を乗っ取った、謎の女の声。
(教えて、教えて!)
 かあっと光り輝き出すは肩にかかる数珠。いつの間にと思う暇すらなく光は明るさを増し、熱ささえ感じさせる。その圧倒的な輝きのもと、空間の赤さが消える、黒さが消える、総じて暗さも消えていく。だけど、落ちてゆく先のもっと奥の方は、未だ暗さが立ち込めている。

 そこに見える、誰かの姿。

(誰、かしら)
 靄か霧か、何かうっすらとしたものがかかって見えにくい。けれどその人は、何かに繋がれているようだった。両手首に重い手錠が掛かっていて、鎖はより暗き深淵に沈んでいる。深淵から滲みだす黒い瘴気が、その誰かの体全体に重く、圧し掛かっている。近付く度、呼吸が浅くなる。胸が苦しくなる。どうしてか、泣きたくなる。無性に、怒りたくもなる。
 遠くのわたしでもこうなのに、あの人の胸の内はどうなのだろう。
 あの人が背負わされているのは、この世の全ての悲しみと苦しみ、そして怒りではないか。あの人はこの世全てのそう言った悪しき、哀しきものと繋がれているのではないか。
 それでこそ、怨霊。人を苦しめさせ、狂わせるモノ。
 きっと強大に、そして禍々しいまでに悪しきものなのだろう。忌まわしきものなのだろう。それこそ無慈悲に笑い、人と人で戯れる神様と同じように。
 でも。
(あの人がきっと、わたしの探している答えだ)
 わたしは目を逸らさない。どんなに苦しくても、胸が痛くても、歯を食いしばって、その深みまで進む。落ちていく。潜っていく。
(だからお願い)
 手を伸ばす。数珠は一層、どこか荒ぶるように明度を増した。
(もっとよく、もっとはっきりと!)

 わたしに見せて!
 全てを!

 心の叫びは吸い込まれる。声とはならなかった。ただその代り数珠の大玉が――仁義八行の八玉が輝きを暴発させた。

 そう、それは、わたしの願いがまるで、荒々しく爆発でもしたかのようだった。


next
はちあいトップ
小説トップ

inserted by FC2 system