彼女のはじまりの物語




 岩室を出ると、少し出ただけなのに冴え渡る月光に爪先が照らされた。森は数日続いた雨で洗われたかのような空気で、月光をより磨き上げるかのようでもあった。瑞々しい空気を共に清らかな光を吸おう。わたしは一つ、深めに呼吸する。眠る前に比べて、気分は悪くなかった。光と空気がわたしの体をさあっと洗ってくれた気もする。気持ちも随分穏やかになる。このままの気持ちで行きたい。伏せる前の気持ちを思い出したくはないから、そのまま外へ出た。
 獣の息遣いが聞こえる。何やらぱたぱたと羽ばたきにも似た音もする。こちらへ駆け寄ってくる気配を察してわたしは微笑んだ。
「八房」
 駆け寄ってきたものは別段危険な狼でも野犬でもない、ただの犬。それでも普通の犬よりは大きくて、子牛くらいはあると思う。きっと何も知らない人が彼に遭遇すれば怪犬だとか何だとか言うのだろう。でも実際は恐ろしい犬でも凶暴な犬でもない。無害な犬。道理も何もわからない、単純な畜生だ。おそらく今日の分の食糧を取ってきて、そのまま伏せをしてわたしが出てくるのを待っていたのだろう。待ち切れない、とばかりに全開の笑顔であるように見えた。そう。ただの可愛らしい無邪気な犬だ。何も知らない人も、わたしも、ただ微笑んでいればいい。

 そう。微笑んでいればいい。
 それなのに、わたしが握るものは僅かに開いた鞘の隙間から鈍い銀の光を放つ。

 懐剣のその光は彼の目に入るなり、陽気そのものだった彼の足を止めた。ぱたぱたと忙しなく振られていた尾は萎むかのように垂れ下がり、なすすべもないと言う態でそのままその地に腰を下ろした。耳までも哀しく下がったように見える。降伏の意を示すかのように彼はそのまま体を伏せた。
 わたしはやはりただ微笑んだままで、けれども懐剣の方もやはり離さなかった。食糧たる木の実や山菜を取って、岩室の入り口近くに腰を下ろす。月明かりはちょうどいい具合にわたしと八房の一間を静かに照らしていた。火なんか必要ない。火を起こした記憶なんか、ないけれど。
「今夜は、いい月夜ね」
 心からそう思ったし、八房に向けた微笑みもまた真なるものだったけど、その実わたしは気を許そうだなんて欠片も思っていないのだ。握る懐剣がどうにも重たくわたしの手に沈む。虚偽に気付いて微笑みが不意に解けた。ほんの少しだけ、罪悪感が募る。
 八房は問いかけてくるように目を瞬かせる。今ここで微笑んでも苦笑にしかならないのに、わたしはやはり、微笑を浮かべた。その様子に安心したのか彼はまた瞬きをする。今度は不安の影は見せずに。そんな八房の方も微笑んで見えるのは目の錯覚だろうか。犬が笑うなんてこと、ないのに。でも、この八房は人間以上に人間らしいところがあるから、そういうこともあるのかもしれない。
 闇を渡り、夜を見守る鳥の声が遠く、微かに響いた。夜風にざわめく梢は共鳴するかのよう。一種の美妙なる音楽となり、山は一層深みを増していく。
 その中で研ぎ澄まされる月明かりを、伏せたままの八房は目を細めて見つめた。降りてくる光を渡った先にあるものを、彼は細まる視界の中で見つめているのかもしれない。わたしには見えなくて、彼には見えるもの。
 わたしは月ではなく、彼の横顔を見ていた。一見すれば眠っているのかと思う程の穏やかな顔つきは、何も知らない人が見ればもしかすると神獣だ、仏の使いだと言うかも知れない。こんな山中にいるからといって、こうしている静かな彼は恐ろしい山犬に似ても似つかない。今日の月明かりの中でならば尚更だ。
 人間でもそこまでは至れまい、悟りきった顔を見て一体誰が思うだろう。この犬がかつて狂おしいまでに妄執や獣欲を背負っていたこと。それに苛まれ、それこそ野犬や山犬のように蛮性を露わにし舌を吐いては涎を流し、毛を舐り鼻を舐りしてただ苦しげに喘いで、その内なる責苦から逃れんとしていたことを、誰が。
 悩ましさが募る彼の日々を切り開いたのはわたしの読む経だったのだろう。読経の功徳で、彼はこんなにも解脱し切った顔をして見せるようにもなった。わたしの前で。わたしの前で。それは喜ばしいことのはず。だからこそわたしだって微笑んでみせるし、言葉などなくとも二人でいる間が心地良いと知った。
 でも、わたしの心は彼の表情程、澄み切れない。
 どうして? そう問われれば、わたしは素直に話そう。何てことない顔を浮かべながら、屈辱を嚥下しながら。でもこう話したところで、そんなのは冗談だと笑われてしまうのが関の山だっていうことはわかってる。それでも事実なのだから仕方がない。

 この犬がわたしの、夫であるということを。
 人間が犬にされたわけでも、変化したわけでもない。
 正真正銘、わたしは犬に嫁した女だ。

 行くべきところ、誰かに嫁ぐ未来が本来あったのかどうかわたしは知らない。けれど人は人の下へ嫁ぐべきことくらい真理も同様の道理だ。畜生に嫁ぐなんて、そんなの、最下層の貧民でも障害者でも有り得ない。ましてやわたしは、この人跡未踏の山で草も木も虫達も動物達も知らないだろうけれど、一国の姫の身分だった。
 一国。この山、富山を領地として有する国、里見家の一の姫。
 それがわたしだ。それだけでも、ただの平民に嫁ぐことは考えられない。
 それなのに、わたしは。


 ――ならば、お前を常に可愛がる、飼い主も同然の我が娘を。
 ――お前の嫁にやろうか。八房。


 あの日微かに聞こえていた父の言葉が脳裏に甦る。わたし達家族が死なんとしていた静謐満ちるその場。そこに入った犬の鳴き声。転がる首。父の告白。また、繰り返されるその言葉。
わたしは見た。微かに、聞こえていた。
 無意識に息を詰めていたのか、ふう、と息をつく。また少し息苦しくなってきた気がした。そのことに八房が不思議と気付いたのか細めた目をぱちりと開き、やはり問うようにわたしを見つめてくる。無邪気な瞳だ。仔犬の時からちっとも変ってない。
「大丈夫よ八房」
 今度浮かべる笑みは、儚過ぎるものではないはず。八房への僅かばかりの愛しさが深みを出すものとなったはずだ。だけどわたしの奥底から湧き上がってくる記憶がその愛しさを冷たさに変えていく。負けないよう、彼を見た。彼は首を傾げるように少し鼻先を動かしながら、やはり丸々とした黒目がちの瞳でわたしを見つめる。くうん、と声さえか細げに流して。
 こんな、愛くるしい姿だけ見れば、きっと彼には何か邪悪なものが取りついていただけに違いないと思うだろう。そして誰も思わない。彼の過去を推測出来ない者らには、思えまい。そもそもこれも誰が信じると言うのだろう。
 一匹の痩せ衰えた犬が、絶体絶命の布陣を駆け抜ける。挙句、敵の大将の首を討ち取って、死地に向かわんとしていた家族を、国を、戦いを勝利に導く。そんな太古の昔に語られた伝説そのものが実際に起こってしまったことを。その犬こそがこの八房なのだと、彼の愛くるしさに目を細める者の誰が信じると言うのだろう。
 わたしだって信じたくはない。
 わたしが犬に嫁いだことを、信じたくはない。
 でも。と、そう実際に呟く気力も無く、わたしは空を仰いだ。月には薄く雲がかかっていたけれど、なお明るい。少しささくれ立ち始めていた心がそっと穏やかになった気がする。
そうだ。八房がわたしの経によって悪しきものを取り払えたのなら、わたしだって同じだ。ここに来て経を読み経を写しては清流に流し、功徳を積んだ。何も心乱すものなく、ただ移りゆく季節を眺め暮らしていく内に精神はずっとずっと穏やかになった。確かにそうと言える。仙人になったと言ってもいいくらいだ。
 それなのにわたしは何を焦る。どうして重く、胸が鳴る?
 それはまるで真の心を代弁するかのように。
 あるいは何かがわたしの隙間につけこんで、忍び寄ってくるように。
 振り切るように静かに目を伏せても変わりはしなかった。わたしの気持ちに逆らってわたしの中で追憶と述懐は続いていた。
 八房の功を思うにつけ、不可解な気持ちが湧く。わたし達も飢えていれば八房だって飢えていた。骨の浮いた彼の体、餌を欲しがる彼の切ない呻きを思い出すと胸が苦しくなる。けれどもそんな前提を覆す事態が起きてしまったのだから、腑に落ちない。そもそも、人を殺したことなんかない犬がどうしてあそこまで。
 考えられることは一つだけ。
 あれは何か、人知を超えたものが八房に働きかけたに違いない、ということだ。
 犬が齎した勝利に城中が湧いた。その熱狂に押されるように苦境はどんどん開かれていき、敵陣である安西景連軍を一掃した。忽ち里見家は安房四群を領することになって、わたしのお父様である里見義実は治部少輔の位に登った。民の暮らしだって平和そのもので、何もかもが幸いになったかに見えた。

 何か問題があるとすればそう。
 わたしにとっては悲劇の始まりだったということくらいだ。
 それだけ。そう、それだけ。

(でも、だって)
 わたしを八房の妻にする。お父様にとってそれは軽い口約束に過ぎなかったかもしれない。でも約束は守らなくちゃいけない。守らなくて何が国主だと言うのだろう。綸言は汗の如しで、君子の一言はどんな馬でも追いつけない。一度結んだ約束は果たされなければならない。守らなければ民に真は示せない。八房だって犬の身でありながらそれをちゃんとわかっている。わかっているからこそどんな御馳走にも、召使いにも領地にも心を動かされなかった。ただわたしだけを求めた。
 そう。畜生だってわかっていることよ。
 或いは、八房を動かした人知を超えた何か、だって。
 それにわたしは、皆が愛し敬うお父様が好きだった。だから、そんな簡単な間違いを犯して欲しくはなかった。既に、畜生などに人の子を許すと迂闊に言ってしまうこと自体が罪や過ちなのだとすれば、犯してしまったものはしょうがない。いっそ最後まで貫き通して欲しい。

 だから。
 だから、わたしは八房に連れられてここに来た。
 誰も訪れない魔境へ。誰も知らない仙境へ。

 わたしの体に沈み込むように掛かる数珠の珠にそ、と触れる。大玉の一つ一つには文字が浮かんでいて、繋げると如是畜生発菩提心と読める。もともとは別の語句が浮かんでいたけれど、戦いが終わった頃に見てみたら、この語句が浮かんでいた。きっとその時から、八房がわたしへ懸想し始めたのだと思う。あるいはそれよりもっと前だったのかも知れない。
 畜生に導かれて菩提に至る。
 この句をそう解釈したのはお父様だ。なるほど、経の功徳によって八房はあんなにも澄み切った顔をしている。彼が月明かりの中見ているのは菩提へ至る道筋だ。それに導かれるわたしもまた、菩提の境地へ行けるのだと思う。迷いを捨て去って、完全な悟りを開くことが出来るのだと。
 けれども、わたしの奥底から、わたしが静かに問いかけてくる。
 静かに。けれども、どこかせせら笑うように。

 出来るの? わたしが?
 今もなお迷い続けているわたしが?

 瞬間、脳裏に映ったものがある。たった一瞬水面に見たそれは、一瞬の記憶なのにどこまでもわたしの脳裏を、視界を埋め尽くしていく。まるで今も続いているのだと言わんばかりに。わたしの何もかもを奪っていくように。
 それはどこか、呪いのような執拗さで。
 体は人なのに、頭は犬。
 一瞬見たそれは、畜生と化していくわたしの姿。

 どこが菩提? どこが悟り?
 この世からなる煩悩の、犬の姿そのもの。

 一瞬で消えたけれど、それは心の迷いが見せたもの。だからと言って、自覚すれば消えるものと言うわけではない。
 どうしてだろう。読経を重ねても、写経を続けても、穏やかな気持ちになってああ、いくらか変わったのだと思ってみても、それは表層のものでしかない。問題はもっともっと深くにある。瑣末なことだ、気にしないといくら頭を振るってみたところで、どうだって言うの。

 こんな風にわたしは、未だに迷い続けている。
 終わりも始まりも見えない道を、ぐるぐる、ぐるぐると。
 菩提など、悟りなど、果てしなく遠いような気がする。
 八房だけが、わたしを置いて遠くに行ってしまった。
 わたしを、独りにして。

 どこにも行けない。行くところも帰るところもない。わたしの絶望だけが深く影を落とす闇のようなこの場所で、わたしは独りで死んでいく。

 そう。独りだ。ひとりぼっち。
 ひとりぼっちで生まれてきて、ひとりぼっちで死んでいく。

「なんて……」
 風に揺れる梢の音がわたしの声を攫っていく。薄く消されたわたしの言葉の先が心に沈んだ。

 なんて、無駄なものなんだろう。
 なんて、意味の無いものなんだろう。

 こんな女一人死んだところで、これからの里見の家に――わたしの生まれ故郷であるここに何を齎せると言うのだろう。ただお父様の言葉の真たることを証明して見せただけ。そしてきっと、そのことをほとんどの人に知られぬまま死んでいくのだ。それだって時が経てば否応なく変化していくだろう。無知で蒙昧な人の手によって真実は遠ざけられ、奇奇怪怪なものに、下世話なものに変えられる。ただ畜生の妻となった哀れな姫とだけ伝えられる。そうなれば、愛しいお父様の方だって愚将や暗君と伝えられてしまう。
 どう転んでも、悪い方に倒れる。
「本当に」
 感慨が胸の内に留めておくにあまりあるものならば、自然と口から漏れ出づる。ええ、本当に。本当に。どこか嘲笑の意味も含めて、わたしは小さく呟き重ねた。
 本当に、わたしは一体何の為に生まれてきたと言うのだろう?
 弟がいるから、里見家を継ぐ為の婿を取らなくてはいけない責任はない。となればどこか名のある武家に嫁いでそこで子を成し、その家を豊かにし、双方の家を繋ぐ役割というのが普通の、武家に生まれた姫の生き方なのだろう。
 でもわたしは既に道から外れている。
 こんな山の中で、八房とひとり。
 菩提に至れるかなんて甚だ怪しくて、むしろ滑稽で。
 意味なんて、どこにもない。
 もはやもう、死んでいるようなもの。
 ひとりぼっちで迷いを抱える、ただの弱い女なだけ。
 女は汚れているから。女は邪魔なだけだから。
 釈迦の言葉も孔子の教えも、わたしをますます閉じ込める檻に過ぎない。
「だから、捨てられたのかもしれないわね」
 心に留めるべき独り言が思わず声に出た。八房はきょとんとしてこちらに顔を向けぱたん、と尾も振る。わたしはただ首を振った。それでもじっとこっちを見てくるのが決まり悪く、わたしは意識的に彼から目を逸らした。木々の隙間が切り取る夜空を見上げていた。月は段々と量を増やしていく雲に隠れるようになって、天は暗さを増していく。
 捨てられた、と声には出さず口を動かす。
 そうだ。捨てられた。
 わたしは捨て犬のようなものだ。犬に嫁いだのならわたしもまた犬だろう。あの幻影のことだってある。だから、ここにいるのは一人と一匹じゃない。二匹の犬が、行く場所も帰る場所もなく、最後の場所であるこの山に永久に留まっている。ここに捨てられた犬だ。ここで死んでいく犬だ。
 何故って、と、わたしは月からも目を逸らした。どこを見つめればいいかわからない。わたしはただ目を閉じる。暗闇の中に浮かぶものは、今はもう逢えない人々。お父様。お母様。弟。城の者達。頭を抱え、ひたすらに嘆いているのは、お父様。
 わたしはそう、犬。わたしを表すものが既にそのことを示していたのだから。
 わたしを表す唯一のもの。世界でたった一つの言葉。

 伏姫。
 お父様の嘆きがわたしを呼ぶ。

 それは、わたしの名前。
 世界で一番、忌まわしい言葉。

 伏姫の伏の字は、人にして犬に従う。追憶の中のお父様はそう解釈して頭を抱え、うち嘆いていた。
 人にして犬に従う。それは、女がこの世の不条理に屈して、全てのものに伏して生きていくのとどう違うと言うの。人にして犬に従った、まさしくその通りのことを実行しているわたしはきっとそれ以上だ。だからわたしに待っているのは、きっとつまらない死だ。

 伏。忌まわしい一字。
 わたしに最後まで付き纏う、それは、呪い。
 呪いを背負って、捨てられたわたし。
 何の為に、生まれてきたのだろう。


 わたしのやるべきことは、何?
 わたしの、わたしの。
 わたしの。


「ああっ! もう!」
 どん、と丸めた拳は土を打った。突如として上がった大声に鳥が驚き飛んでいく羽音が遠く聞こえた。わうっ! と驚いたような、けれども軽く唸るような声を上げて八房だって起き上がり尻尾をぶんぶん振る。牙だっていからせていた。声を出したわたしの方はと言えば、じんわりとした痺れと痛みが拳に広がったのと、肩で息をしているくらいで特に何ともない。ただ少し体全体が汗ばんでもいるかもしれない。でも、喝を入れたつもりなのだからこれといって別にどうってこともないだろう。
 こんな風に沈んだところで、それこそ何だと言うの。
 拳についた泥を払ってふう、と息をついた。
「八房、ごめんね、驚かせて。何でもないわ」
 何でも、と言葉を重ねようとして、声に詰まった。腹と胸を圧迫する何かが込み上げる。忽ちに走り抜ける、急激な嘔吐感。う、と呻きが漏れると同時にわたしは、手で抑える暇もなく吐瀉を撒き散らした。
 はあ、はあ、とやっぱり肩で息をする。吐いた身としては溢れんばかりの、と思っていたけれど実際には大したことはなかった。夜でよかった。月明かりは曇ってきているから、自分から出た醜悪なものをはっきり見れずに済んだ。明日外に出る時は見ないようにすればいい。そう強がってもどうしても、吐出の後の倦怠感がずしりと身を重くさせる。
 やっぱり駄目だ。最近やけに体調が悪くなってきているのも、そんなことばかり考えているから。あんな風に沈んでも、いいことなんて何一つない。
 どれだけ考えようが、とうに答えなんか見えている。
 ただ考えたいだけ。そこに意味はない。ただの言葉遊びなだけ。虚しい一人遊びだ。
 くうん、と八房が心配そうに鳴いていた。ゆっくりとこちらへ近付こうとする。
「大丈夫よ、八房」
 来ちゃだめだからね、と手で制す。嘔吐物を舐めて彼に何かあるといけないというのは尤もらしい理由なだけで、ただわたしは自分の身を汚されることを――やはり、変わらずに恐れているのだ。彼への罪悪感を募らせながらも、結局は自分のことばかり。
 けれど、約束だから。お父様との。
 決して汚されはしないと、捨てられる時に誓った。
「お経でも、読みましょうね」
 あんなことを考えてこんな目に合うくらいなら読経し、写経をしている方がずっとましだ。す、と腰を上げる。立ち眩みをやり過ごそうとそのまま首をもたげて曇る月明かりを見た。
 答えは月明かりよりも、いいえ、太陽の光よりもなおはっきりしている。

 だって。
 考えたって、そんなもの。
「……見つからないのだから」

 わたしの、やるべきことなんて。

 呟きにもならない言葉は翳る月に吸い込まれていく。わたしに浮かぶのは自嘲の笑みか、死にゆくものの表情か。
 見つからない。どこへ行っても、行かなくても。
 ここで終わる。ここが最後の場所。物語の終焉だ。
 それに、わたしはもう。
「……全てを」

 そう。
 全てを、諦めているのだから。

 その言葉を、月は受け取らない。ただ深く深くわたしの胸に沈んでいくだけだった。
 それはまるで、呪いのような重さだった。


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