まるで何か大きな力が働いて引き離されていくように思えた。
 オレが伸ばした手は、届かない。
 舟が流されていく川の流れ。それは、三途の川よりもきっともっともっと荒ぶるうねり。
 運命にも似た何か。
 どんなに、どんなに手を伸ばしても、望んでも、越えることが出来ない。
 オレのこの手は、届かないのか。
 その光に触れることは、出来ないのか?
 許されて、いないのか?


 オレが武士の子であること。千葉氏自胤の忠臣だった父が謀略によって殺されたこと。父の本妻、異母兄や異母姉までもが揃って殺されたこと。まだ母さま――母上の腹の中にいたオレまでもが殺されそうだったこと。母上がオレを命がけで守って、女として今まで育ててくれたこと。父を殺した憎き仇は二人いるということ。
 それらを告げて、しばらく経った冬のある日、母上は、儚くなった。
 オレ一人を残して。


 二人の仇を討つこと。
 それがたった一人残されたオレの生きる全てだった。
 母上がオレに託したこの事実。きっと、この先独りになってしまうオレを生かす為の理由。
 男として。武士として。
 オレは、女として育っても、女ではないのだから。


 憤怒に滾った。憎しみにその血を湧かせた。それらは固まることを知らず烈火の如く、あるいはどろどろと膿の如く、オレの思考のあちこちから吹き出してきた。
 二人の仇の姿を、まだオレはよく知らなかった。
 だから憎む対象は、この身の不幸全てだった。
 父上を陥れたこと、異母兄達を殺したこと。
 母上が苦しめられたこと、つまり、オレ自身が殺されそうだったこと。
 武士の子であるはずなのに、下賤な商売に身を窶さなければいけなかったこと。
 男なのに、女として育たなければならなかったこと。

 オレがずっと感じてきた理不尽。初めて知った不条理。勧懲の正しくない、おかしな世界。
 長い間母上を苦しめていた、全ての元凶。

 全部、全部、全部、その二人が悪い。

 オレは憎んだ。怒った。恨んだ。呪った。
 たった一人になってしまったオレは、そうやって生きてきた。
 まるで、恨みを背負って死んで、讐を祟り続ける怨霊のように。
 この世全ての憎しみと繋がるくらいに深く深く、そう思い続けた。
 そんな鬱蒼として息苦しくて気が狂いそうな闇の世界に、自分から飛び込んでいった。


 それでもオレは多分、光をどこかで求めていた。
 その光が、あいつだったのかもしれない。




 捕らわれていたあいつ。見るからにお人好しそうな、ちょっと間抜けにも見える奴。
 でも話に聞く限りはいい奴そうだったから、ちょっと試してみたら見た目よりもかなりしっかりしてる奴だった。
 まこと勇者はここにあり、とか、ちょっと言いたくなるくらい。
 どうしてだろう。オレはあいつに惹かれていた。
 だから出来るなら、あいつと一緒にここを脱出したかった。
 ……惨劇を引き起こすつもりだったし、あいつに下手な疑いかかったらまずいしな。
 でも、何かやだな。オレが抱いてるこの憧れみたいなのって、他人から見たらいわゆる恋ってやつなのかな。
 うーん。オレ、女の格好してるし、女としても育ってきてるけど、男とはちょっと勘弁だぜ。
 ま、試すつもりでちょっとばかり色仕掛けっぽいことはしてみたけど、あいつ、靡かなかったし。やっぱり、立派な奴だって思った。
 なのに、ここを抜けだせたら、わしの嫁さんにしてやるとか……わけわかんねえ。あいつどういうつもりで言ったんだろ。妹か何かと勘違いしてんじゃねえの。

 多分、親切で言ってくれたんだろうけど。
 仕方ねえ奴。

 こんな、憎まれ口叩いてるけどさ。
 本当は。
 本当は、ちょっと嬉しかったりもした。
 敵討とか、その後どう生きようかとか、そういうの、一瞬だけ忘れそうにもなった。
 考えてみれば、あいつはオレにとって初めての、芸人じゃない、そういうの全然関係ない、男の知り合いになったってことになるんだ。
 友達っていうのかな。ちょっと話しただけだから、違うかな。
 でも。
 初めての、そんな人。
 惚れ惚れするような素敵で立派な人。


 そんな人が、オレの初めての友達。




 でもオレは。
 オレは忘れたりしなかった。
 手筈通り、手形を獲った。憎き讐の一人の首をぶっちぎってやった。
 それ以外に、オレは何をした?
 積年の恨みをそこで全部晴らしてしまうかのように。


 オレは楼いっぱいを真っ赤に染めて、塗って、塗り潰して。
 視界全部が、赤くて朱くて紅くて赫い。
 そんな世界にしたんだ。




 ああ。
 あいつが、見ていなくて、良かった。




 ……なんて。
 そんなだから、オレは闇なんだ。
 そんな自分勝手な気持ちでいい気になっているから。


 手は、届かない。
 遠ざかっていく。
 オレの光が。




 オレはその時。

 その時初めて、寂しさを感じたような気がした。

 母上が亡くなった時も感じたはずのそれ。だけど、全然違う何か。
 初めて、孤独を感じた。
 初めて、独りになったと感じた。
 ちょっと話しただけ。ちょっと自分の素姓や来歴を語っただけ。
 それでも、すごくすごく惹かれていたあいつと離れる。離れてしまう。
 離れてしまった。




 でも。
 オレは手を伸ばす。
 伸ばし続ける。
 闇が光に手を伸ばしたところでと嘲笑うか? 光にはなれまいと悲しく笑うか?
 いいさ、そこで笑ってろ。
 この胸に燃えている、あいつへの想い。
 その火をオレは燃やし続ける。
 オレは、だから、生き続ける。
 必ず、仇討を成し遂げて見せる。

 オレは、諦めない。
 いつか絶対仇を討って、お前とどこかで再会する時が来る。

 世に稀なき勇士殿。犬田小文吾殿。
 オレの、犬阪毛野胤智の、初めての友達。



 だから。
 オレは絶対に。

 絶対に、諦めない。





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